「良い授業」って、どういう授業?
『純粋理性批判』通読してみた
| 哲学書が読み終わらない。かれこれ4ヶ月くらい同じ本を読んでいる。正確に言えば、3冊で1組の哲学書の日本語訳だが。読んでいるのは『純粋理性批判 上・中・下』(岩波文庫)で、やっと本編は読み終えたが、まだ付録の部分で50ページほど残っている。全体の総量は970ページほど。
私は本を並行して読むのが常だし、今は秋学期で予復習にも時間を取られるとはいえ、これらは6月から読み始めたので、4ヶ月のうち2ヶ月は夏休みだったはずだ。そもそも、夏休みを使ってこの3冊を読み切ろう、1ヶ月かそこらで読み終えて、そのあとは授業で触れたことのあるプラトンやルソーでも読もうかな、なんて思っていた。夏休みに読む本の候補を他にも十数冊揃えて一時退寮したはずだった。
結果、十数冊はまだ一度も開かれず、手にも取られず部屋の隅に平積みされている。これも読もうあれも読もうとウキウキしながら長期休みを迎え、結局思った通りにいかなくて積読で終わるのは本好きの常であると思うが、いくらなんでもたった3冊にここまで苦しめられるとは思わなんだ。まず、そもそもなぜこのようなある種無謀とも言えることをしようと思い至ったかについて話そうと思う。
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春学期に、Jeremiah L. Alberg先生のPHR106「Introduction to Philosophy (哲学概論)」 (E開講)なる授業を取った。100番台、かつ「Introduction」「概論」である。メジャーの単位を稼ぐため、E開講をコンスタントに取るため、などが履修する理由としては先行していた。哲学は必ずメジャーにするつもりで、既に200番台も2、3個は取っていたから割と楽にこなせる授業だろうと思っていたが、蓋を開けてみると全然違った。
面倒臭がって英語のシラバスをろくに読んでいなかったこともまずかったかもしれない。しかし、唯一日本語で書いてある説明には、「哲学の歴史的な発展に即しつつ、その主要な課題、研究分野を概説する。また、多様な哲学的立場の検討を通じて、哲学的探求の成立の条件を考察する」とあるのだ。「広く浅い」授業感満載ではないか。(聞けばシラバスの1番上の説明は教授が書いていないらしいので当てにしない方がいいとか。もっと早く知りたかった…)何度同級生達と、「これ絶対100番台の授業じゃないよね」という諦観の思いに満ちた談笑をしたかわからない。
授業は、ルソー、その後にカントの順で、原著と向き合いながら哲学の何たるかを学ぶ、いや、哲学「する」ことを学ぶという目的のもとに進められた。ちなみに、「人は哲学を学ぶことはできない。ただ哲学することを学ぶだけである」というのは余りに有名なカントの言葉である(原著である『純粋理性批判』のクライマックスにおいてこのフレーズに実際に出会えたとき私は甚く感動を覚えた)。Alberg先生はドイツ観念論及びカントなどを専門に扱っていらっしゃる方ということで、前述の言葉を正に重んじられた授業展開だったことも随所に感じられた。
カントにはルソーの影響が強く見られるということで、授業はまずはルソーから入った。最終盤でこの『純粋理性批判』の序文を読み、レポートを書く。しかも、一度書いたレポートを改善させた「rewrite版」の提出もある。授業と並行して書き進める5枚(多い!しかも当然全て英語)のうち2枚は全く同じ内容について書くわけだ。そんな訳で、春学期の終わりに私はこの大著の序文だけをひたすらに読んだ。
そして、死に物狂いで最後のレポートの提出も終わらせ、初めの頃提出したものよりずっと良い点数をつけられた5枚目が返却された頃、次の様な考えが頭に浮かんだのである。「原著の序文、つまりまとめの部分をひたすらに読み込んで『それなりに』理解した。とするとこの大著全体にも今なら比較的挑戦しやすいのではないか?哲学書は短いものしか読んだことがないし、『自分の頭でまず考えたい』とほざいて哲学書自体敬遠しがちだったが、この夏休みで通読に挑戦してみても良いかもしれない」
これが全ての始まりだった。そして冒頭で述べた様な現在の苦境に至る。
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ここで、すこーしだけ『純粋理性批判』の内容を紹介しておこうと思う。カントは、私たちが認識して人間の理解の僕としている(=ほぼ理解しきっている)と思い込んでいる観念(=思考、知識)体系も、自然法則の体系も、「人間にとって感じられる限りでのもの」でしかない、と断言する。「世界」「自然」「もの」の「それら自体」は人間にはどうやっても感知し得ない、という。だから、人間自身やその精神やあるいは自然法則についての完全無欠な包括的理解はそもそも不可能だ、ということだ。宇宙は無限か有限か、起源を持つか持たないか、神は存在するかしないか、肯定も否定もし得ないと結論づける。
「科学で私たち人間は全てを把握、掌握することができる」と舞い上がっていた啓蒙主義の全盛期において、人間の世界認識の仕方を考察する認識論によって、毅然として「人間の知性のどうしようもない限界」を示したこと、それがカントの歴史上の重要性を説明する上で1つ強調されるべき点だろう。カントの場合はこの認識論という純粋哲学に加え、道徳哲学、政治学、美学などなど、その功績が残る分野は挙げればきりがないが。
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話を戻して、私がこの大著を読破しようとする上でぶち当たった諸困難にも言及しようかと思った。だが、「知らんがな」となる人もいるだろうから細かくは述べないことにする。少し言及すると、見開き2ページを読むのに20分くらいかかることもちらほらあった。岩波文庫、そしてドイツ観念論。この2つの組み合わせの邦訳哲学書はとても読みにくいことで悪名高い(訳自体は悪いとは思わないが)ので仕方ないが。そもそもドイツ語から日本語への翻訳、という点もネックだ。加えて、この大著の中では諸哲学用語の意味が所々はっきりしないなどの問題もある。
余談ではあるが、先日光文社の『カフカ短編集』を読んだ。後書きでカフカ作品と訳、というテーマに触れられていて、「訳者がカフカを裏切っている」などと言われることもあるくらい、カフカとは訳の問題が付きまとう作家であるらしい(原語はドイツ語)。そこで岩波文庫のドイツ観念論(まさにカントなど)の邦訳の話が引き合いに出されて、「律儀に直訳すぎて、主述の関係が全くチンプンカンプン」とぶった斬られていた。つい呆れ笑いしてしまった。ちなみに反論は全くできない。私自身が該当する著作を読んでみて嫌というほど実感している。
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しかし、これだけ大変な思いをして、それでもここまで至ったその過程に私は非常に満足できているというのも、また事実である。この不思議な所感と、同時に考えた「良い授業」とは何だろうか?ということについて深掘りしてみたい。
「良い授業」を考えるにあたって、そもそも授業の「適切な目標設定」とはどの様なものだろうかと考えてみる。そこで、現在私が履修している政治学の授業の話をしよう。この授業では、哲学と実社会の接続が強く感じられる点が非常に面白い(POL212「西洋政治思想史II」 I、II、ⅢのうちIIしか履修したことがないが、強く勧める)。その講師は初回の授業でこのような趣旨のことを言っていた。「とどのつまり古典(ホッブズ、ロック、ルソーなど)が読んで理解できるようになればいい。それが授業での学びの目標だ。」と。
私はこの先生ほど俯瞰的に「大学の授業での学び」に対して考えを持てている訳ではないが、実感としてはこの意見に賛同する。要は、(難解な)名著に自ら向き合い、反芻しながら自分の頭で考える経験と、洗練された内容の理解を自分のものとすること。授業での学びが、それへの一助となれば良い、ということだろう。名著の読解に焦点を当てる授業ばかりではなくとも、「学びの対象に自分自身で向き合って、理解する」という大筋はどの学問分野の授業でも同じだろう。だから、その様な(生徒が自ら進んで学習するようになることを狙いとし、実際にそうさせるような)授業を「適切な目標」に基づいた「良い授業」とみなしても差し支えないと思う。
さて、私を大著読破の苦行へと唆した件の授業は、実際に私をして「向き合って考え、考え、考えて何かを学ぶ」ことを可能ならしめたわけである。とすると、この授業は確かに「良い授業」と言えるのではないだろうか。「理想的」と言っても良いくらいだ。
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しかし、何の要素がこの授業を、少なくとも私にとっては「理想」に近いものとしたのだろう。2週に1回くらいの頻度で課された「原著(英語訳の哲学書)を読んでそれに対する論駁または解説のレポートを書く」という骨の折れる課題だろうか(私は途中から邦訳に逃げたが)。そうだろうと少し前までは思っていたレポート支持派の私だが、最近は自分が割り切ってレポート作成をしてしまっていることに気づき、色々とわからなくなっている。
というのも、私がよく話す友人には考えることが好きな輩が多い。彼らとはよく「先生がスライドを読み上げるだけだったり、ずっと話し続けたり、知識を詰め込むことに偏っていたりする授業は辛い」という話をする。「だってそれなら自分で本読めば代替できるじゃん」という訳だ。だから評定の付け方も、覚えたりちょっとズルしたりしてこなせるテストよりは、自分で内容を絞り出して書くレポート形式の方が良いだろうという見解で一致していた。
だが最近の私は、「どの道哲学書を読んで批判的にレポートを書くなんて突き詰めれば終わりがないのだから、時間を決めてささっと終わらせてしまおう。そして課題図書は後でじっくり腰を据えて読み直そう」とつい考えてしまう。なまじ完璧主義というか細かい性分である自分が沼にはまってしまわない様に予防線を張れている、とも取れるが。しかしこのように、ただこなされるレポートだってこの世にはごまんとあるだろうし、実際春学期の私ですらそういうきらいがあったことも否定しきれない。
テストかレポートか。評定の付け方とは、義務感によって学生をある程度強制的に頑張らせるものであるから、前述の様な「生徒の自発的な学びを促進する」という意味での「良い授業」について考えるのに悪くない着眼点であると思うけれども、上記の様なわからなさに今現在はぶつかっている。ディスカッション寄りか講義寄りか、など他の要素も加味すると一層複雑になってしまいお手上げだ。
もしかすると、苦しみながらも自発的に学ぼうと思い続けられたのは、授業云々ではなく私個人の素質の問題だと言えるのだろうか。自分でそう言うのは幾分おこがましすぎるというものであろうが、確かに果ては学者になろうとすら思っている私であるから、その背景が影響していると考えられなくもない。しかしそれでは「『良い授業』とは何か?」という疑問は放置されてしまう。
この疑問は、繰り返し述べているように、換言すれば、「学生が自発的に勉強して学びを修めるようにする授業とはどの様なものだろう」ということだ。これがわからないと、特定の授業でたまたま熱心に学べたことがあっても、そもそもどのような授業が私にとってより実りあるものになるだろうかということの見通しは立たないままで、履修登録期間にシラバスを比べっこして大いに悩む、という定番をこの先も繰り返さなければならない。誰か自分なりにでも答えらしきものを持っている人は是非教えていただきたい。
もしかすると、ひたすら逆張りする「答えは教科書の中にはない」「大学なんて、学校なんてクソだ!IT社長はみんな学歴ないぞ!」といった「本当に大事なことを学校では教えてくれない(だから学校や授業には期待するな)」という流行りの言説に乗っかれば良いのだろうか。しかし、私の愛する哲学、哲学書は他でもない大学という発明の中から生まれてきたのだと思うから、大学という機関やそこで供給されるものに大した意味はないとは私は思わないし、その様な吹けば飛ぶような流行りに乗っかる気もさらさら起きないのだ。
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「良い授業」とは、再三繰り返してきた「学生が自発的に学ぶことを促す授業」で間違い無いだろうが、ある授業の如何なる要素が「自発性」を刺激するのかは今のところ私にはわからない。ならばせめて、「良い学び」、いやそもそも「学び」とは何だろう、と考えてみよう。
アインシュタインの有名な言葉に、「Education is what remains after one has forgotten everything he learned in school (教育とは学校で学んだことを全て忘れた後に残るものである)」という言葉がある。heに限定するなよ、という視点はここでは仕方なくスルーさせてもらうとしても、やはり的確な言葉だと思う。
皆わかっていることだろうが、ほんの少しの例外を除いて、私たちが必死こいて学んだ内容、顕著な例では受験勉強でひたすら反復した暗記事項などですら、そのうちに記憶から消えてしまうものである。小学校や中学校で勉強したこと、あるいは高校で勉強したことですら、授業風景の断片的な記憶以外に私の中にはほとんど残っていない。再び教科書を開けば思い出せる、ということは沢山あっても、強く常に心に残っている教科書の記載事項などはほとんどない。
だが、学びが失われたということではなく、学んだことの本質が抽出されて、私たちの中に残っている。そしてそれらは(知識や理論とは微妙に違う)私たちにも覚知できない力学として私たちに、きっとポジティブな仕方で働きかけるのだ。友達が目の前で話している内容を聞いて、いつかどこかで聞いた全く違う分野の話をなぜか思い出す。そして、「これらがどこかで繋がっている気がする。」という不思議な直感を感じる。この様な誰にも馴染み深いであろう経験が良い例だと思う。
このように確かに残るものがあるからこそ、長い歴史の中でほとんど誰も「教育」または「学ぶこと」を過小評価しようとはしなかったのだ。これらの側面が、「教育」、つまり「学び」の本来的な意味だと上述の言葉は訴えているのだと思う。少し矮小な表現に収めてしまうことになるが、これこそが先に述べた「良い学び」、或いは単に「学び」の内容たり得るだろう。そもそも「学び」は全て等しく「良い」という意味を含意していて、「良い」という枕詞は余計だと言ってしまえもするだろうが。
そして、この言葉に照らし合わせて、私の4ヶ月に及ぶ奮闘こそ「学び」なのだろうと信じたい。いや、信じられるのだ。
なぜなら、私はきっとこの体験を忘れないだろう、と直感できるからである。初めて『純粋理性批判』を必死で読み通したのは大学2年生の夏だった、と思い返すことになる機会が必ず訪れるだろう、と信じているのだ。それこそ哲学書は何十回、いや何百回も読み返すものだと哲学講師達は言うから、学者志望の私がカント専門になって何遍も読み返すことになりもするかもしれない。
だがそうならなかったとしても、である。初めての、真に「哲学をしようと」した体験、その「初めての1回」。(よりシビアには原語で読むべきなのだろうが)哲学を学ぶこと、いや、「哲学をする」こと、或いは「学ぶ」とは何なのかすらを少しずつわかり始めたそのきっかけとして、この本との出会いがあった、と私はずっと忘れないだろう。私がこのキャンパスで毎日どうやって過ごしていたか、誰とどの先生の授業を、どこで受けていたかすらほとんど思い出せなくなっても、少なくともこの体験のことは覚えていられるだろう。
こうした直感までも私に与えてくれる経験が「学び」でなかったとして、何を「学び」といえようか。いつまでも私の中に、私の心の中に残り続けると確信できる幾つかのものが私にはある。そこに一緒に並べることができるものを、自らの手で1つ増やせたことを、心から嬉しく思う。
【花田太郎】
追記:この記事が完成する3日ほど前に無事この『純粋理性批判』を読み終わった。これから『実践理性批判』、『判断力批判』と、カントの三大批判に挑戦しようと思う。いっそ半年くらいかかるという覚悟を今から決めておこうか。モラトリアムの特権を享受しておけるうちにしておきたい。