泰山荘、その価値とは 【前編】

taizansou今月25・26日にはいよいよICU祭が開催されるのだが、この期間に合わせて泰山荘の高風(こうふう)居(きょ)および一(いち)畳敷(じょうじき)が特別公開される。我々学生からすればこれはICU祭の一イベントに過ぎないのだが、対外的にはこの特別公開は都の主催する「文化財ウィーク」というイベントの一環として位置づけられている。

この文化財ウィークの期間中には、普段は公開されていない文化財であっても一般に公開されることになっており、泰山荘の高風居と一畳敷もその一つである。忘れがちだが泰山荘は国登録有形文化財なのだ。指定文化財とは異なるので国からお金は下りないが、その価値は認められているので、文化財ウィークのガイドブックのような公的なリストに泰山荘も含まれている。

何やら価値があるらしいということは分かったのだが、そもそも泰山荘って一体何なのよ、と問われたら筆者は簡単には答えられそうにない。

正直なところ個人的には、キャンパスの一隅の……小規模な建物が点在している辺りだよね……ぐらいの認識でしかなかった。泰山荘のイメージが、「泰山」の名から連想されるような荘厳な建物像に落ち着いていたならば、明確に捉えられたのだろうと思うが、実際訪れてみると小規模な建物が点在しているだけで拍子抜けしてしまう。たしかにかつてのICUにはその名にふさわしい、茅葺の立派な母屋が存在していた。昔は、泰山荘=この茅葺の母屋という認識があったくらいだ。

だが、残念ながら現在はこの建物は火事で焼失している。「泰山荘」という語から明確な像を連想できないとあっては、それが何なのか答えられなくても仕方がないのではないか。

 

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往時の泰山荘母屋 出典:ヘンリー・スミス『泰山荘―松浦武四郎の一畳敷の世界』

 

あくまで視覚的な象徴性に固執するのであれば、いつまでたっても泰山荘のイメージを描くことはできないだろう。だが、一度その歴史を紐解いた者であれば、泰山荘の価値の所在がどこなのかに気付くはずだ。注目するべきは焼け落ちてしまった母屋ではなく、むしろ高風居と一畳敷なのである。それらの建物にはどのような歴史が秘められているのだろうか。

前置きが長くなってしまったが、以下では、高風居と一畳敷の歴史的背景をたどり、泰山荘の価値とは何なのかを探っていく。

 

 1.松浦武四郎と一畳敷

一畳敷は1886年に松浦武四郎という人物によって建てられたものである。ご存知の方も多いと思われるが、彼は江戸時代後期から幕末にかけて、蝦夷、樺太、千島列島といった当時の辺境を探検した人物であり、その地理やアイヌ文化を含めた風土に関する著作を多く残している。幕府や新政府の役人としての顔もあり、維新後の函館判事時代には蝦夷の名に代わる「北海道」という名称を案出した。

偉業を成し遂げた人物が建てたもの、というだけで十分価値がありそうだが、特筆すべきは一畳敷に用いられた建材だろう。彼は晩年神田五軒町の自宅に書斎を増築するのだが、その実現に際して、各地の社寺や歴史的建造物から古い用材を譲り受けた。かなり事細かに記録が残っているのだが、これは彼が一畳敷の普請に合わせて『木片勧進』という目録を作成していたからだ。ここに彼の収集家としての一面も垣間見られる。

では「古い」というのは具体的にどの程度であったのだろうか。目録では、用材は1から91まで番号づけられているのだが、時代が判明しているものだけを分類すると以下のようになる。

一畳敷の用材の時代分類

白鳳(645-710)1
奈良(710-794)2
平安(794-1185)9
鎌倉(1185-1392)14
室町(1392-1568)6
桃山(1568-1600)5
江戸初期(1600-1700)17
江戸後期(1700-18683

出典:ヘンリー・スミス『泰山荘―松浦武四郎の一畳敷の世界』

 

小さな空間を構築するために各地の由緒ある建物から木片を集めたところに、彼の一畳敷にかける想いが伝わってくる……のような安直な感想をついつい書きたくなるが、彼にとって個々の木片自体は寄贈してくれた友人知人への手がかりに過ぎないと述べている。若かりし頃方々を巡った思い出に浸りながら静かに晩年を過ごそうとしたのだろうか。

【後編】つづく

※この記事は2014年10月16日発行のThe Weekly GIANTS No.1138/39号からの転載です。

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