泰山荘、その価値とは 【後編】
|2.一畳敷が三鷹の地に落ち着くまで
一畳敷が最終的に三鷹大沢に落ち着くまで、実は三度移築がなされている。武四郎の死後、様々な人々の手を渡ったという歴史にも一畳敷の特異さが見て取れる。
一度目は神田五軒町から麻布の南葵文庫敷地内への移築であった。南葵(なんき)文庫は、紀州徳川家当主の徳川頼倫(よりみち)によって1902年に設立された日本初の西洋式私設図書館である。松浦家と南葵文庫のつながりは、日露戦争後日本が南樺太を奪還した折に、武四郎の遺した地図や日誌といった記録が改めて評価され、南葵文庫へ寄贈されることになったところから始まる。
南葵文庫へ武四郎の記録が所蔵されることになったのは家の名誉ではあったが、松浦家にとっての遺産はそれら記録だけでなく、母屋に建て増しされた一畳敷でもあった。だが、下町・神田という場所柄、火事による焼失の危険があった。そこで持ち上がった話が南葵文庫への移築である。南葵文庫の敷地内に武四郎の記録を展示する小屋を新たに造り、それを母屋とすることで一畳敷のみを麻布へ移築したのだ。たしかにそれは賢明な判断であった。というのも、1923年の関東大震災で発生した火災によって神田五軒町の松浦家は焼失してしまったからである。
関東大震災後に一畳敷は二度目の移築を迎える。震災後の火災によって東京帝国大学の所蔵図書の大部分が焼失してしまったのだが、その復興を支援するために南葵文庫から図書が提供された。これにより南葵文庫は閉鎖され、麻布の土地は引き払われた。この際一畳敷は、震災前に徳川家が移転していた郊外の代々木上原に移されることとなった。
先にも述べた通り、一畳敷は独立構造物ではないので母屋を必要とするのだが、頼倫は母屋の代わりに新しく茶室を建てることにした。これが高風居である。「高風」とは「気高い人格」を意味し、したがって高風居は武四郎を称えた名称なのである。建物自体も由緒ある一畳敷に倣って、日本各地の有名な歴史的建造物から集めた部材を用いようとしたようだが、実際は限定的だったようだ。
三度目の移築によって、一畳敷は高風居ごと三鷹大沢の地へ移される。
文化活動や慈善事業に私財を投じてきた頼倫であったが、家計を顧みなかったために徳川家の経済状況が悪化、彼が亡くなった後には調度品が放出され、高風居と一畳敷もやむなく手放されることとなった。
そこに目を付けたのが新興財閥・日本産業株式会社(日産)の重役であった山田敬亮とその妻・のぶである。夫妻は本社設立に合わせて西日本から東京へ移ってきたのだが、妻のぶは東京の上流社会への足がかりとして茶室文化を利用しようとした。その披露の場として計画されたのが泰山荘である。茶道の世界では、由緒ある調度品や建物を取り入れる慣習がある。冒頭で紹介した泰山荘の母屋も、もともとは近辺の農家を移築したものだとされている。高風居と一畳敷も泰山荘を実現する際に徳川家から取得したものなのだ。
三鷹大沢に土地を購入したのが1934年で、泰山荘全体が完成したのが1939年だったのだが、折悪しくも日中戦争勃発と国家総動員法による統制、ドイツのポーランド侵攻による第二次世界大戦開戦によって、華々しいお茶会を開催できるような状況ではなくなっていってしまった。
そんな山田夫妻の手に余っていた泰山荘一帯に買収の話が持ち上がる。目を付けたのは中島飛行機の創設者、中島知久平である。中島飛行機は研究所のための土地を探していたのだが、近在の工場や調布飛行場に近いこの地は研究所設置に最適だったのだ。研究所設立のために泰山荘の敷地含め三鷹の広大な土地が取得されたが、泰山荘自体壊されることなく知久平の自宅として引き続き存続することとなった。
3.ICUと泰山荘
開学当初は住宅供給が追い付かないこともあって、泰山荘の建物群は教職員住宅として供されており、また母屋は学生会館として大学施設の一部を担っていた(冒頭でも述べたが、残念ながらこの母屋は1966年に火事で焼失している)。
1970年代になると、急速に老朽化していく泰山荘の建物の管理が問題となり、泰山荘を潰してコンクリート造のゲストハウスを建てる計画が立てられたことがあった。幸いなことに当時のICU理事であった湯浅恭三によって、基金を設立し歴史的な価値を再認識して、もとのように改修して利用する案が結果的に採られた。この改修工事は1979年から1981年にかけて行われ、近年付加された部分を取り除くことによって、泰山荘本来の状態へ戻されることとなった。
現在では、海外からのゲストをもてなす際や、茶道部のお手前披露の場などとして活用されている。今度のICU祭でも特別公開と合わせて、茶道部による秋季茶会が開かれる予定だ。
泰山荘の価値とは一体何であるのかという問いに今一度立ち戻ってみると、筆者としてはつまるところ、歴史の多重性・多様性ではないかと考える。松浦武四郎をはじめ様々な人物の関わりや、一畳敷と各地の古社寺との結びつき、そして一畳敷や高風居がどのように継承され、歴史の舞台としてあり続けてきたのかこそが、我々をして泰山荘が価値あるものと認識せしめる根拠なのではないだろうか。
紙面の都合もあり、まだまだ語り尽せていない部分が残るが、読者の皆さんにとって泰山荘について少しでも思いを巡らすきっかけになれば幸いである。
<2014年度泰山荘高風居(一畳敷)特別公開>
ICU祭が開催される10月25日(土)、26日(日)に泰山荘高風居(一畳敷)が特別公開される。
時間は午前10時から午後4時までで30分間隔のツアーガイドにれ実施される。各回定員12名のため事前予約が必要。
詳しくはhttp://subsite.icu.ac.jp/yuasa_museum/を参照してください。
■参考
ヘンリー・スミス『泰山荘―松浦武四郎の一畳敷の世界』(1993)国際基督教大学博物館 湯浅八郎記念館
※この記事は2014年10月16日発行のThe Weekly GIANTS No.1138/39号からの転載です。