【寄稿】ICUのキャンパスと戦闘機 ~国際基督教大学のキャンパス・グランド・デザインを踏まえて~
|先日、国際基督教大学(以下、ICU)は2020年に向けた新たなキャンパス作りのためのキャンパス・グランド・デザインを発表した。本館と理学館が取り壊されて代わりに新本館が建てられたり、ディッフェンドルファー記念館東棟(旧D館)も取り壊されて今の西棟のさらに西側に新ディッフェンドルファー記念館建設されたり、新々寮のような寮がキャンパス各地に建設されるといったようにキャンパスの光景は今とは大きく変わることであろう。
既存の建物の建て替えについてはコンクリートの劣化などによる耐久年数や施設維持費などの観点からも避けることは困難であることは認めざるをえないが、このキャンパス・グランド・デザインによって大きな変革の時期を迎えるこのキャンパスについては歴史的な観点からも改めて考えてみるべきだと考えられる。
このキャンパスの敷地には第二次世界大戦の終戦まで中島飛行機の三鷹研究所があり、そこでは剣や富嶽といった旧日本軍機の本体や部品の開発と組立も行われていたということを知っている学生も少なくはないと思うが、70年が経った今でも当時の遺構は残っている。しかし、キャンパス・グランド・デザインの施工によってそれらの大半が永遠に失われてしまう危機に瀕することになる。
2016年3月時点でICU構内に残る中島飛行機時代の遺構もしくはそれに準ずるものとしてはマクリーン通り(いわゆる「滑走路」)などの主要な大通り、礼拝堂前の旧ロータリー、大学本館などと非常に限られてしまっている。ICUが献学された1953年頃は本館の西側の道路を挟んだ土地に戦闘機の組立も行われていた格納庫の残骸が残っていて、それを体育館に改築するという計画もあったらしいが結局取り壊されてしまった。
今回はそれら遺構についてを簡単に紹介していきたい。
まずはICU生なら一度は通ったことのあるであろう正門についてだが、これはICUの創設者達がキャンパスの土地を購入しようと視察に訪れた際に撮影した写真で確認することができ、中島飛行機時代から今までそのまま使われているということが推測される。
近年桜の植え替えが進んでいるマクリーン通りも、中島飛行機時代の遺構である。この通りは「滑走路」とも呼ばれているが、実際に中島飛行機時代にここから戦闘機が飛び立ったことは一切なく、研究所から今の野川公園の敷地を通って調布飛行場の滑走路まで運ばれてから飛び立っていたということだ。マクリーン通りについてはキャンパス・グランド・デザイン上でも正門から新ロータリーまでは特に大幅に変わることはないようだが、旧ロータリーまでは道が狭められて歩道となるようだ。
礼拝堂前の旧ロータリーも、その形だけでなく構造物そのものが研究所時代から補修されつつ使われている。かつて格納庫から運ばれてきた戦闘機は今のディッフェンドルファー記念館の北側を通って旧ロータリーを利用して南へ方向転換し、そのまま調布飛行場方面へと向かっていた。
そして、これから取り壊される予定の大学本館は中島飛行機三鷹研究所の研究本館として使われていた。研究所時代は4階部分はなく、内部では軍用機やその部品の設計などが行われていたそうだ。また、屋上の角には機銃台として使われる予定であった構造物は未だに残っている。
献学から60年が過ぎ、ICUのキャンパスはこれから大きく変わろうとしている。しかし、大学はこのキャンパスの歴史的な背景について学生や教職員が詳しく学ぶ機会をあまり提供してこなかった。またそれは大学側ばかりに理由があるのではなく、学生たちも積極的に知ろうとしてこなかったからでもあるのではないだろうか。キャンパス・グランド・デザインそのものに対しては賛否両論あるだろうが、戦後70年を過ぎた今、改めて国際基督教大学の献学の理念を思い返し、このキャンパスに残されている歴史の証人を見つめなおしてもよいはずだ。何も知ろうとしないまま、ただそれが古いからといった理由で残すのではなく、ICUの理念も念頭に置いた上でそれぞれの構造物の歴史と意義を再考し、適切な形で保全していくのが望ましいだろう。
また、ICU高校の教員の高柳昌久氏はICUのキャンパスの歴史についての講演を行ったことがあり、献学60周年事業の一環として行われた湯浅八郎記念館の特別展「建物に見るICUの歴史」での講演の様子がICUのOpenCourseWareに掲載されているので、キャンパスの過去についてより深く学びたい方はぜひ視聴してみることをお勧めする。
http://ocw.icu.ac.jp/sl/sl_20131012-2/
参考
・C・W・アイグルハート「国際基督教大学創立史―明日の大学へのヴィジョン(一九四五―六三年)―」1990年, 国際基督教大学