再考を請う-本館前広場につくられたセクハラ雪像について-
|2022年1月6日はかねてからの予報通り(都内にしては)大雪となった。ここ、砂漠のオアシスことICUも例外ではなく、すっかりモノクロになったキャンパス内で学生たちが思い思いに雪を楽しんでいる様子が見受けられた。筆者も例外ではなく、カメラを持ち出して写真を撮り友人と雪合戦に興じた。
ところが、その楽しさも吹っ飛ぶようなものを見かけてしまった。言葉にするのも憚られるようなモノであるが単刀直入に言おう。人の背丈ほどもある巨大な男性器を模した雪像である(写真は文末に添付)。
それが置かれていたのはD館から本館へ通じるたった一本の道の脇である。計2点あるうち大きい方に至っては道の真横であった。つまり、本館に向かう学生は否応なくこれを見せられるわけだ。去年の降雪の事例を考えれば、こうした雪像は夜のうちに凍結し、長くて3日4日ほどはその形を止める。ましてやこの大きさだ。かなりの間、その姿を道ゆく学生に晒すことになるだろう。
これを作るに至った経緯やノリは知るべくもない。もしかしたら有名な漫画の中のネタの再現であるかもしれない。しかし、「相手を不快にし人権を侵害する性的な言動」(ブリタニカ国際大百科事典)がその定義である以上、これは立派なセクシュアルハラスメントにあたるのではないだろうか?作り手側に「これはジョーク」という概念が共有されていようと、それを知らなければただの猥褻物陳列の類であり、「悪ふざけ」の範疇を明らかに超えている。こんな「ジョーク」が日本でトップレベルにジェンダーの平等の研究が進んでいる大学で行われていることを今一度考え直してほしい。一部の学生の間ではもはや冗談のようにすら言われているが、それでも我々は世界人権宣言にサインをしたのではなかったか?
筆者の性自認は男性である。これに類する冗談(いわゆる下ネタ)はたくさん見聞きしてきたが、批判的なことを言うと「お前、堅苦しいな」とかわされてしまうことがほとんどだった。しかし、ICUの学生だけはそうではないと信じ、今一度問いたい。これは「ロマンがわからな」くて「遊び心がない」「意識高い系」の「堅苦しい」批判なのだろうか?「表現の自由の侵害」だろうか?
筆者の名は山本瑛という。この記事に不満があれば、批判があれば、反論があれば、ぜひ議論したい。匿名でもいいので、連絡をお待ちしています。【山本瑛】
メールアドレス:weeklygiantsco@gmail.com
以下閲覧注意。見る場合は自己責任でお願いします。
2022年1月6日20時ごろ、本館前にて
筆者撮影
自分の意見は汲み取ってもらえる余地があるはずだ、という根拠の示し方ではなく、
自分の意見は「社会的に正しい」はずだ、という根拠の示し方だと、
対話の可能性って削がれるよなと感じた
文中にもあったが、本来ならセクハラとされるべきことがらが冗談として受け流されてしまうということは、私たちの生活の中ではよくある。その一環ともいえる今回の行為に対して声を上げたことは勇敢であるし、問題提起のきっかけにもなる有意義な問いかけであると私は思う。
そういった賞賛の気持ちがある一方で、私の中では雪像を作った人を庇いたいという気持ちもある。雪像を作った人は悪意を持ってそれを作ったわけではないだろうと思う。東京で滅多に降らない雪で気分が昂揚して、仲間内でふざけて雪像を作ったというのは容易に想像がつく。それに対して、理詰めで、それも雪像を見ていない人までが見られるところで徹底的に非難してしまうのは、雪像を作った人が少しかわいそうではないかと思う。このような擁護に対しても、セクハラには悪意の有無は関係ない、調子に乗っていたなどという言い訳で自身の行いの責任を逃れることはできないと言われたら言い返しようがないが、それでも私はやっぱり感情では彼らを完全に責めるということはできない。
この記事が世の中のセクハラを受け流す風潮に一石を投じるものとして評価しつつ、調子に乗って男性器の雪像を作ってしまった人には同情の意を示しておく。これだけ厳しく叱られて、それがインターネットに晒されたんだから、ひとりくらい庇ってやったっていいじゃないか。
ジェンダー研究進んでる部分もあるけどICUの一部のコミュニティはミソジニストの集まりになって、ジェンダー警察(笑)みたいな態度の人がいるなあとは思ってたので、ああ…って思いました。そういう問題興味ある層とそうでない層ってなかなか授業やコミュニティが重ならず、相手が見えなくなる感じがするから難しい。自分が友達少ないだけかな
我々は消毒化された世界と言うのを目指しているのではないか、とふと考えることがある。誰も傷付かない、刺々しさのない世界。誰しもがこの世の全ての言論に傷つかない世界は確かに理想的なものだろう。ポリティカルコレクトネス(以下PC)はそれに一役買うと思うし、それによって救われる痛みがあるのなら、素晴らしい試みだと思う。
PCの一般化によって、我々は今まで以上に自分の表現が他者にどのような影響を与えるかを考える義務を社会的に課された。また、icuと言う、いわゆる高学歴かつ高所得層がマジョリティーである大学に通う、the upper classであるものとして自らでもその義務を課している。さて、ここで問題になるのは「他者」という言葉には何が内包されているか、と言うことである。すぐに思いつくのは、性的少数派であるが、今回の件で問題になるのは、その「他者」のなかに、男性器を催されたもので傷つく誰かがいるのか、と言うことだ。
勿論それが0、と言うことは起こり得ない。ここに議論の余地は必要ないので論証もしない。何が議論を決定づけるかというと、「他者」の中に男性器で傷つく人がどの程度の割合いて、どのくらいいるのか。そして仮に少ないなら、それを無視して良いのか、と言うことである。論旨をここできちんと整理することにより、これはジェンダーの問題ではなく、何かを行う際に誰に何をどの程度配慮するべきか、と言う問題であった、と言うことを明らかにしておく。筆者はこの点を見失っているように感じた。
ここから先は私の個人的な考えだ。誰かを攻撃するつもりがないことは前もって明言しておく。性的なものを想起させるものは、問題になりやすい。傷つく誰かは必ずいる。そう考えると、この雪像が表す、記号としての男性器は作られるべきではないものだったのだろう。もしくは今すぐ撤去されるべきものだろう。そうして我々の生きている世界からは、何かを不快にさせるものは消えていき、我々は消毒された、高潔なる世界を歩むのだろう。服の下にだらりとぶら下がった乳房や男性器を抱えて。
セクハラとか表現の自由以前にセンスの問題。仮にふざけるにしても、もうちょっとひねりの効いたものにした方がよかったのでは、、。あまりにも安直というか、低レベルな笑いに思えてしまって、議論する以前の物の様な気がした。作った人がどんな意図かはわからないが、個人的には表現方法の幼稚さに失笑しかできない。ロマンとか遊び心は、むしろこの「作品」に欠けているのではないだろうか。
だれのために怒っているのだろうか?
こんにちは。わたしは当初この雪像を見た際、単純に面白がって写真を撮ったりしていたのですが、こちらの記事を読んだり雪像に対して批判的なICU生の意見を見たりして改めて再考したところ、やはり公共の場であのような雪像を作ることは有害だとの考えに至りました。
わたしはあの雪像が「卑猥」であるがゆえに問題なのだとは全く考えていません。問題は「卑猥」であるかどうかではなく、雪像の制作者や私のようにそれを単純に面白がった傍観者が、性器の表象が孕む加害性の大きさを考慮していないことだと思いました。性器、とくにペニスは、現状の社会では多くの人々にとって、性的な加害を受けた体験などに紐付けられてしまっており、恐怖のトリガーとして機能しうるものでしょう。そうしたものをゾーニングもなく公の場に置くこと、またわたしがしたように笑って済ませることは(いかに雪像が稚拙なものでありリアルなペニスの表現でないとしても)、「われわれはそうした人々の恐怖や苦しみに対して配慮する気がないし関心もない」というメッセージの発信として成立してしまうのではないかと考えました。
再考と反省の機会を与えてくださった記者の方に感謝しております。
普通に興味があるんですけど、ポコチンの雪像を見て、オェッて思う人どのくらいいるんですかね?
ぜひ今度のウィークリージャイアンツで調査してほしいです
>かなりの間、その姿を道ゆく学生に晒すことになるだろう。
そういう雪像が人々を不快にしてしまう状況を変えたいと, 世界人権宣言に則って本当に思う人は, その場で雪像を壊すでしょう. クリーンな立場を表明しつつ何も行動しない, 旧態依然とした日本の政治家のよう.
記事を読み、書き手である山本さんが件の雪像に怒りと不快感を覚えたことは、わかりました。ただ、山本さんの感情を除いて、本記事から伝わってくることはあまりないように私には感じられました。というのも、本記事を通して(書き手と雪像の作り手以外の)私たちICU生に何を求めたいのかが判然としないのです。
この雪像を直ちに破壊してくれということだったのでしょうか。それとも、この雪像を作っている人を止めるような環境づくりをしてくれということでしょうか。あるいは、「男性器を象ったと思しき」雪像を作っている人を挙って糾弾してくれということでしょうか。
記事からは、山本さんの感情の渦巻きが読み取れました。それと同時に、記事の内容の密度の低さとそれに伴う疑問が私には湧き上がってくるのです。
前者については、恐らく山本さんの感情が筆を走らせてのことでしょうから、このコメントでは深入りはしません。後者につき、以下に少しばかり述べさせてください。
1月6日に山本さんの目に「人の背丈ほどもある巨大な男性器を模した雪像」が映ったことは理解し、写真も拝見しました。なるほど、件の雪像は男性器を模しているように見えるのでしょう。
しかし、ここで(極端に意地の悪いことであることは承知のうえ)批判的視座に立つと、なぜ雪像が「男性器を模している」と断言できるのか、と思ってしまうわけです。雪像には「男性器を模している」と判断し得るタイトルが付けられていたのか。作り手が「男性器を模している」と主張していたのか。
記事には雪像を指して「ただの猥褻物陳列の類」とあります。仮にこの表現が刑法175条(わいせつ物陳列罪)念頭に置いていると理解しますが、この雪像を同条にいう「わいせつな…その他の物」に当たるのかは、雪像の「わいせつ性」を精査したうえで、議論の余地がありそうです。
また雪像が「わいせつ物」だとして、同条に則してみると、(いかに注意書きを添えたとして)不特定多数の人がアクセスできる電子版の記事に写真を掲載することは、公然陳列に当たるという指摘がなされる余地もあるかもしれません。
記事内の「『表現の自由の侵害』だろうか?」という部分も気になります。「わいせつ物」の客観的定義の意味で定義づけをしていないのに、ただ一方的に「わいせつなセクハラ雪像」と断じているに過ぎないのではないでしょうか。言い過ぎかもしれませんが、自己に都合の悪い表現を排除する姿勢は、治安維持法に代表される「悪法」が成立した、今のような「表現の自由」なき明治憲法下の日本の為政者側に通底しているようです。
さいごに、「…日本でトップレベルにジェンダーの平等の研究が進んでいる大学で行われていることを今一度考え直してほしい。一部の学生の間ではもはや冗談のようにすら言われているが、それでも我々は世界人権宣言にサインをしたのではなかったか?」についても言わせてください。
たしかに、ICUがジェンダー研究の分野で日本の中でも先を行っているのでしょう。私もジェンダー研究をしている他大学の人からそう聞いたことはあります。ですが、ジェンダー研究と今回の雪像はどのような具体的な関連性があるのでしょうか。ジェンダー研究が盛んであるから「わいせつな」雪像はいけないのか、ICUがジェンダー研究の行われていない大学ならばよかったのか、記事からはあまり見えてきません。
そもそも、ジェンダー研究はICUの数あるメジャーの一つにすぎず、「ICU=ジェンダー研究」とするのは過度な図式化であるように思われます。記事の読み手によっては、ジェンダー研究をしているまたは関心を寄せているICU関係者を持ち上げているとも理解されかねないほどにも感じられます。世界人権宣言についても、浅学な私には今回の雪像が宣言の何れの条文に触れるのか判断がつきませんし、雪像とは直接の関連性も薄いように思います。
私の知る限り、大学執行部・ジェンダー研究センター(CGS)のどちらからも今回の雪像に関するコメントはありません。個人的には今回の記事を起点に、大学執行部、CGSあるいはICUの(法学、文学やMCCメジャーなどの)教員の方々にインタビューし、「表現の自由」と「わいせつ物」をテーマとした記事が執筆されることを期待しています。