再考を請う・コメント編
|1月6日に発表した記事「再考を請う-本館前広場につくられたセクハラ雪像について-」では大変多くの反応をいただき、主目的である「議論の起点をつくる」ことには成功したように思う。続報にあたる本記事ではいただいたコメントをまとめて掲載する。
始めるにあたって一つ前提として書いておきたいのは、上述の記事は誰かの気持ちを代弁したものではないということだ。いただいたコメントにも「誰のために怒っているのか」というものがあったが、端的に答えるならば「自分のため」ということになる。つまり、筆者がそれを見て不愉快に感じたため新聞という媒体でそれを批判し議論の起点とした、ある意味感情的な記事である点をご理解いただきたい。しかし、それゆえ論調が「ワンサイドな正しさの押し付け」になってしまい、軽い気持ち(ノリ)でこの雪像を作ったかもしれない人を頭ごなしに糾弾するような書き方になってしまったのも事実である(「軍国主義下の日本の指導者と重なる」と言われるまでに)。これは公正な立場から記事を書くべき記者として問題があったと考えており、非常に反省している。
以下、コメントを列挙する。メールや記事のコメント欄にいただいた意見、筆者宛の個人的なメッセージなどをほぼそのまま載せているため、文体がバラバラである点についてはご了承いただきたい。
①「特定のパースペクティブから見て間違っていることをただ間違っていると述べることに対しての不安」
雪像を作った人や記事を読む人に対して権威主義的なレッテリングを行う必要があるかという点についてです。仰るように、ICUはトップレベルにジェンダーの研究が進んでおり、入学時に人権宣言にサインをします。しかし、それだけでICU生の下ネタに関するスタンスを「こうあるべき」と規定することはできるでしょうか?言い換えれば、ICU生的な”us”と非ICU生的な”they”を一方的に作り上げることは可能でしょうか?この点が私の疑問です。
また、素朴な疑問ですが、この場合に下ネタが好きな人の気持ちはどう扱われることになるのでしょう?(男性器の雪像を作った人たちは下ネタが嫌いな人たちの気持ちを取り扱おうとはしていないかもしれませんが…)
②「誰に向けて何を伝えたかったのかがはっきりしない」
あの記事は誰に向けて何を伝えたかったのかがはっきりしません。雪像の作成者のモラルを問うものなのか、それとも雪像を半ば受け入れる態度をとった人たちに態度を改めるように訴えたものなのでしょうか。雪像の作成者に向けてのものであれば本人と対話をすべきでしょうし、それ以外の閲覧者に向けてであれば、その人たちは何をすればよかったのでしょうか。
また、世界人権宣言のお話を出されていましたが、誰の何の権利が侵害されたのでしょうか。世界人権宣言は内容が漠然としているという性質上、特定の事例に当てはめる際には相応の説得力が必要であると考えています。
雪像に対する私の立場は
・性自認は男性
・現場で目視したわけではなく、SNS上で当該画像を確認
・石像のように形に残るものではなく、時間経過で消滅する雪像ということで甘めに見ている。
・ICUの正門前のように部外者にも見えるような所であればいざ知らず、ICU敷地内を私的空間のように私は認識しているため、大目に見ている。
・雪像は卑猥なものであると認識し、嫌悪感を抱く人もいることは承知の上で、誰かの権利を奪うなど、直接加害に値するものではない。
・猥褻物を雪像のテーマに選んだことには若干のセンスの欠落を覚え、一部の(馬鹿な)学生がしたことに他の学生があまり振り回されるべきではない。
③「『正しさ』のゴリ押しは対話をさせない」
自分の意見は汲み取ってもらえる余地があるはずだ、という根拠の示し方ではなく、自分の意見は『社会的に正しい』はずだ、という根拠の示し方だと対話の可能性が削がれるよな、と感じた。
④「批判には同意しつつ、製作者には同情」
文中にもあったが、本来ならセクハラとされるべきことがらが冗談として受け流されてしまうということは、私たちの生活の中ではよくある。その一環ともいえる今回の行為に対して声を上げたことは勇敢であるし、問題提起のきっかけにもなる有意義な問いかけであると私は思う。
そういった賞賛の気持ちがある一方で、私の中では雪像を作った人を庇いたいという気持ちもある。雪像を作った人は悪意を持ってそれを作ったわけではないだろうと思う。東京で滅多に降らない雪で気分が昂揚して、仲間内でふざけて雪像を作ったというのは容易に想像がつく。それに対して、理詰めで、それも雪像を見ていない人までが見られるところで徹底的に非難してしまうのは、雪像を作った人が少しかわいそうではないかと思う。このような擁護に対しても、セクハラには悪意の有無は関係ない、調子に乗っていたなどという言い訳で自身の行いの責任を逃れることはできないと言われたら言い返しようがないが、それでも私はやっぱり感情では彼らを完全に責めるということはできない。
この記事が世の中のセクハラを受け流す風潮に一石を投じるものとして評価しつつ、調子に乗って男性器の雪像を作ってしまった人には同情の意を示しておく。これだけ厳しく叱られて、それがインターネットに晒されたんだから、ひとりくらい庇ってやったっていいじゃないか。
⑤「お互いに相手が見えていない?」
ジェンダー研究が進んでる部分もあるけどICUの一部のコミュニティはミソジニストの集まりになって、ジェンダー警察(笑)みたいな態度の人がいるなあとは思ってたので、ああ…って思いました。そういう問題に興味ある層とそうでない層ってなかなか授業やコミュニティが重ならず、相手が見えなくなる感じがするから難しい。自分が友達少ないだけかな。
⑥「無毒化された世界を目指すのか」
我々は消毒化された世界と言うのを目指しているのではないか、とふと考えることがある。誰も傷つかない、刺々しさのない世界。誰しもがこの世の全ての言論に傷つかない世界は確かに理想的なものだろう。ポリティカルコレクトネス(以下PC)はそれに一役買うと思うし、それによって救われる痛みがあるのなら、素晴らしい試みだと思う。
PCの一般化によって、我々は今まで以上に自分の表現が他者にどのような影響を与えるかを考える義務を社会的に課された。また、icuと言う、いわゆる高学歴かつ高所得層がマジョリティーである大学に通う、the upper classであるものとして自らでもその義務を課している。さて、ここで問題になるのは「他者」という言葉には何が内包されているか、と言うことである。すぐに思いつくのは、性的少数派であるが、今回の件で問題になるのは、その「他者」のなかに男性器を催されたもので傷つく誰かがいるのか、と言うことだ。勿論それが0、と言うことは起こり得ない。ここに議論の余地は必要ないので論証もしない。何が議論を決定づけるかというと、「他者」の中に男性器で傷つく人がどの程度の割合いて、どのくらいいるのか。そして仮に少ないなら、それを無視して良いのか、と言うことである。論旨をここできちんと整理することにより、これはジェンダーの問題ではなく、何かを行う際に誰に何をどの程度配慮するべきか、と言う問題であった、と言うことを明らかにしておく。筆者はこの点を見失っているように感じた。
ここから先は私の個人的な考えだ。誰かを攻撃するつもりがないことは前もって明言しておく。性的なものを想起させるものは、問題になりやすい。傷つく誰かは必ずいる。そう考えると、この雪像が表す、記号としての男性器は作られるべきではないものだったのだろう。もしくは今すぐ撤去されるべきものだろう。そうして我々の生きている世界からは、何かを不快にさせるものは消えていき、我々は消毒された、高潔なる世界を歩むのだろう。服の下にだらりとぶら下がった乳房や男性器を抱えて。
⑦「セクハラとか表現の自由以前にセンスの問題」
仮にふざけるにしても、もうちょっとひねりの効いたものにした方がよかったのでは……。あまりにも安直というか、低レベルな笑いに思えてしまって、議論する以前の物の様な気がした。作った人がどんな意図かはわからないが、個人的には表現方法の幼稚さに失笑しかできない。ロマンとか遊び心は、むしろこの「作品」に欠けているのではないだろうか。
⑧「卑猥だから問題なのではない」
わたしは当初この雪像を見た際、単純に面白がって写真を撮ったりしていたのですが、こちらの記事を読んだり雪像に対して批判的なICU生の意見を見たりして改めて再考したところ、やはり公共の場であのような雪像を作ることは有害だとの考えに至りました。 わたしはあの雪像が「卑猥」であるがゆえに問題なのだとは全く考えていません。問題は「卑猥」であるかどうかではなく、雪像の制作者や私のようにそれを単純に面白がった傍観者が、性器の表象が孕む加害性の大きさを考慮していないことだと思いました。性器、とくにペニスは、現状の社会では多くの人々にとって、性的な加害を受けた体験などに紐付けられてしまっており、恐怖のトリガーとして機能しうるものでしょう。そうしたものをゾーニングもなく公の場に置くこと、またわたしがしたように笑って済ませることは(いかに雪像が稚拙なものでありリアルなペニスの表現でないとしても)、「われわれはそうした人々の恐怖や苦しみに対して配慮する気がないし関心もない」というメッセージの発信として成立してしまうのではないかと考えました。
⑨「旧態依然とした政治家のよう」
>かなりの間、その姿を道ゆく学生に晒すことになるだろう。
そういう雪像が人々を不快にしてしまう状況を変えたいと、 世界人権宣言に則って本当に思う人は、その場で雪像を壊すでしょう。クリーンな立場を表明しつつ何も行動しない、 旧態依然とした日本の政治家のよう。
⑩「密度が低く、書き手の怒り以外に伝わってくるものがない」
記事を読み、書き手である山本さんが件の雪像に怒りと不快感を覚えたことは、わかりました。ただ、山本さんの感情を除いて、本記事から伝わってくることはあまりないように私には感じられました。というのも、本記事を通して(書き手と雪像の作り手以外の)私たちICU生に何を求めたいのかが判然としないのです。この雪像を直ちに破壊してくれということだったのでしょうか。それとも、この雪像を作っている人を止めるような環境づくりをしてくれということでしょうか。あるいは、「男性器を象ったと思しき」雪像を作っている人を挙げて糾弾してくれということでしょうか。
記事からは、山本さんの感情の渦巻きが読み取れました。それと同時に、記事の内容の密度の低さとそれに伴う疑問が私には湧き上がってくるのです。 前者については、恐らく山本さんの感情が筆を走らせてのことでしょうから、このコメントでは深入りはしません。後者につき、以下に少しばかり述べさせてください。
1月6日に山本さんの目に「人の背丈ほどもある巨大な男性器を模した雪像」が映ったことは理解し、写真も拝見しました。なるほど、件の雪像は男性器を模しているように見えるのでしょう。しかし、ここで(極端に意地の悪いことであることは承知のうえ)批判的視座に立つと、なぜ雪像が「男性器を模している」と断言できるのか、と思ってしまうわけです。雪像には「男性器を模している」と判断し得るタイトルが付けられていたのか。作り手が「男性器を模している」と主張していたのか。記事には雪像を指して「ただの猥褻物陳列の類」とあります。仮にこの表現が刑法175条(わいせつ物陳列罪)念頭に置いていると理解しますが、この雪像を同条にいう「わいせつな…その他の物」に当たるのかは、雪像の「わいせつ性」を精査したうえで、議論の余地がありそうです。また雪像が「わいせつ物」だとして、同条に則してみると、(いかに注意書きを添えたとして)不特定多数の人がアクセスできる電子版の記事に写真を掲載することは、公然陳列に当たるという指摘がなされる余地もあるかもしれません。記事内の「『表現の自由の侵害』だろうか?」という部分も気になります。「わいせつ物」の客観的定義の意味で定義づけをしていないのに、ただ一方的に「わいせつなセクハラ雪像」と断じているに過ぎないのではないでしょうか。言い過ぎかもしれませんが、自己に都合の悪い表現を排除する姿勢は、治安維持法に代表される「悪法」が成立した、今のような「表現の自由」なき明治憲法下の日本の為政者側に通底しているようです。
さいごに、「…日本でトップレベルにジェンダーの平等の研究が進んでいる大学で行われていることを今一度考え直してほしい。一部の学生の間ではもはや冗談のようにすら言われているが、それでも我々は世界人権宣言にサインをしたのではなかったか?」についても言わせてください。たしかに、ICUがジェンダー研究の分野で日本の中でも先を行っているのでしょう。私もジェンダー研究をしている他大学の人からそう聞いたことはあります。ですが、ジェンダー研究と今回の雪像はどのような具体的な関連性があるのでしょうか。ジェンダー研究が盛んであるから「わいせつな」雪像はいけないのか、ICUがジェンダー研究の行われていない大学ならばよかったのか、記事からはあまり見えてきません。そもそも、ジェンダー研究はICUの数あるメジャーの一つにすぎず、「ICU=ジェンダー研究」とするのは過度な図式化であるように思われます。記事の読み手によっては、ジェンダー研究をしているまたは関心を寄せているICU関係者を持ち上げているとも理解されかねないほどにも感じられます。世界人権宣言についても、浅学な私には今回の雪像が宣言の何れの条文に触れるのか判断がつきませんし、雪像とは直接の関連性も薄いように思います。
私の知る限り、大学執行部・ジェンダー研究センター(CGS)のどちらからも今回の雪像に関するコメントはありません。個人的には今回の記事を起点に、大学執行部、CGSあるいはICUの(法学、文学やMCCメジャーなどの)教員の方々にインタビューし、「表現の自由」と「わいせつ物」をテーマとした記事が執筆されることを期待しています。
⑪「同じようなものをたくさん見てきたけれど、それでも不快」
あの雪像はいやだな。おれ男子校だったから本当にあまたのそういうものに曝されてきたけど、同一の性だとしても気分がわるい。
⑫「男性だって被害者」
仲間内でやるノリを不特定多数の人が見る、しかも大学という高等教育機関の中でやってしまうのはね……。あとこれを見ると不快に感じる女性が多いって言うふうに記事は書いてるように感じたけど、男性(生物学的)は性器の形を晒されてるわけであるからそれはそれで被害者ではなかろうか。
⑬「権利や規則以前にダメなものはダメじゃない?」
論理的に人権宣言的に良くないとかもそうだけど、それよりも単純に感覚的にダメだよね、と思う。でもぶっちゃけた話、(自分も)男子校出身で、ああいうの作るの楽しい人がいるのも知ってるから、権利とか規則とかそう言う難しい話は置いといて、少なくとも他人(学校)に迷惑かけないように、作る場所とか限度は考えなきゃいけないよな、と思う。
⑭「キャンパスに行くのが気が重い」
「がち信じられんわ さっっむ つまんな ふざけたもん作んな以外の感想が出てこない。俺も下ネタ苦手で嫌いで、『真面目だね』とか『堅苦しいね』と言われてきた部類だから共感します。これを見ると思うと明日キャンパスに行くのが気が重い」
⑮「セクハラって悪気がないことが多いのがやるせない」
もし仮に下ネタが行ける人が何人も集まった閉鎖的な空間があったとして、全員の総意の元にするなら勝手にしろって感じだし表現の自由は守られるのかもしれんけど、誰でも見えるところに誰かが不快に思うようなものを作るのは非常に良くないと思った。面白い人にとっては面白いんかもしれないけど、この笑いが不快な人がいるかもしれないってこととかに結構モヤモヤする。セクハラってだいたい悪気ない場合がほとんどなのがやるせないよなぁ。向こうは好意だったり笑わせようとしてやってるんだろうけどモヤったらモヤるよね。
⑯「だれのために怒っているのだろうか?」
⑰「何割が不愉快に思うのか」
普通に興味があるんですけど、ポコチンの雪像を見て、オェッて思う人どのくらいいるんですかね? ぜひ今度のウィークリージャイアンツで調査してほしいです。
⑱「まあさ、そんな問題として扱うほどのことじゃないとは思う。雪だし☃️」
以上、賛否を問わずたくさんの意見をもらえたことにとても感謝している。繰り返しになるが、これにて前回の記事の目的であった「議論の起点を作ること」は完全に達成されたと言っていい。しかし蛇足にはなることは承知の上で、記事を発表した者の責任としてできる範囲のリプライをしたいと思う。
まず「誰に向けた記事なのか」というコメントに関してだが(②⑩⑯)、端的に答えれば「全ICU生」ということになる。作った人、眉をひそめて通った人、笑ってスマホで写真を撮った人、Twitterで意見を呟いた人、どうでもいいと思った人、後から人づてに聞いた人。そんな全ての学生にこの雪像に問題があると思う人がいること、そして賛否両論たくさんの意見があることを知って欲しい。
次に「ICU生のあり方を決めつけている」という意見だが(①⑩)、これに関しては筆者はそれを理解した上であえてこう書いている。今回のこの行為はICU生として云々ではなく、公共の場を使う社会の構成員である以上やってはいけないことだと考えたからだ。いくら下ネタが好きな人の権利があったところで、これを不愉快に思う人が多数いる以上「最大多数の最大幸福」などという理論を持ち出すまでもなくやるべきではないだろう。これはいただいた意見の中の「ダメなものはダメでしょ」に通ずるところがある。ただ、そういう”Common sense”で人の在り方を決定することは多様な生き方の抑圧と表裏一体であることも確かで、非常に難しい問題であると思う。
そして「議論が薄く論拠は不正確」「感情以外に伝わってくるものがない」というコメントだが(②⑩)、これは記事を発表する前から「言われるだろうな」とは思っていた。「だって感情で書いた記事だもの」と言い訳したいが、自分が感情ではなく論理を選んで批判的記事を書こうとした以上これは言われて然るべきだし、言っていただけたことに感謝している。その上で言うならば「これは男性器であるとなぜ断言できるのか」という質問はその前提がなくなれば議論する意味もなくなるので一度置いておくとして(「じゃあ逆にあれが何に見えるのか」と聞きたいが)、ではあなたは件の雪像についてどう思うのか、と聞きたい。このコメントは前の記事を論破するために書かれたように見えるが、それは雪像の存在に賛成するからなのか?それとも論破することを目的にコメントしたのだろうか?
また世界人権宣言に関してはいくつも指摘があったが(②⑩)、筆者はここではセクハラの定義が「相手を不快にし人権を侵害する言動」である点から第一条及び第二条と、男性社会による女性全体への差別、嫌がらせという点から第二条を意識して「世界人権宣言」の理念を持ち出した。今から考えれば若干弱い根拠だとは思うし、的外れな用い方であったとも思う。とにかく書いた時点では筆者はそれを意識していた。
最後になるが、「問題があると思うならなぜその場で雪像を破壊しないのか」という意見(⑨)には賛成できない。議論の対象とすべきものを「自分が不快だから」と破壊して何が得られるだろうか?それに筆者は政治家でもなければ活動家でもない。一学生であり一ライターである。例えば筆者が「不愉快な雪像を見かけたので、人権宣言にサインした者の責任として破壊しました」という記事を発表したとしてそれが何になるだろうか?自分の記事が満点だとは到底言えないが、それでも「破壊しておしまい」よりはよっぽど建設的だったと考えている。
また「構内(私的空間)に作られたためそこまで問題ではない」という意見(②)についても同様に賛成できない。大学というのは(コロナ前ほどではないにしろ)各地各国から学生や教授が学問のために集まる公共スペースである。近隣住民の目に触れなければ大学の名誉は保たれるという問題ではなく、大学の中にいる人を傷つけるから問題なのではないだろうか?
以上、全ては無理だったが、自分が特に大事な問題であると思うものをピックアップしてリプライした。ここで言及しなかったコメントは重要ではない、というわけではなく、筆者の中で結論が出なかったり意見を言語化できなかったものである点をご承知いただきたい。筆者自身のこれからの勉強の糧とさせていただくと同時に、読者の皆様の中での議論の一助にもなれば幸いである。
執筆を終えて
コメント自体は一週間ほどで出揃っていたのだが、やはり多種多様な批判や賛成を精読してまとめるというのは非常な気力を要する作業で、ちんたらやっていたらこんなに時間がたってしまった。記事を発表する前からわかってはいたが、はっきりしない根拠(世界人権宣言など)を用いて論理付けをした批判をするより、感情論に振り切って「嫌だから嫌」で記事を書いた方がまだ整合性はあったかもしれない。なんにせよ、ここまでたくさんの反応を得て議論の対象となったことは記者としてとても価値ある経験となった。
ちなみに、件の雪像は翌朝には完全に破壊されていた。同時に無関係の雪だるまも全て一律に破壊されている。これに関して管財グループに問い合わせたところ、「我々にはそういう指示は出ていないし、関わっていない」とのことだった。
【山本瑛】
世界人権宣言の指摘に関して
細い点ではあるが、第一に「男性」が性自認であるのか否か(他者が「確認済みなので」ということは多少暴力的な気がする)、第二に「男性」→女性と、男性(男性社会)を持ち出す意義が気になる。世界人権宣言は男性は女性を差別してはならないではなく、万人は女性を(性によって)差別してはならないと示しているように感じるので、加害者として男性(男性社会)を態々挙げるのは何故だろう。筆者も言及しているが、この論理のもっていき方には本記事にも多少違和感を覚える。
卒業生です。セクハラかどうかとか、人権宣言がどうとか、性自認がどうという議論ばかりだったようなのが気になり、今更ながらコメントします。問題提起の記事もこの記事も、一言一句読み込んだわけではないので、既出でしたらご容赦ください。
この雪像が設置されたICUのキャンパス内には、幼いお子さんを含む教授や院生家族が居住している点について言及があまりなかったようで驚いています。(もしかしたらコロナ禍で皆さん退去されたのでしょうか?でしたらご放念ください。)
家族がこの大学で教鞭を取っている、あるいは研究をしているという都合でこのキャンパス内で暮らし成長しているお子さんを思うと、この雪像も、それにまつわる議論での視野の狭さも、非常に残念だなと思います。
この記事にあるような議論を交わせるくらいの知識があるのに、選択権のない子ども(や、性にまつわる教育のタイミングの選択権を奪われたかもしれないその子どもの保護者)をこの雪像の存在に晒すことがいかに無意義で卑怯なことかについて言及がないことに驚きました。
キャンパスは誰のための場なのかという別の議論は生まれるかもしれませんが、だとしても、現状、小さな子どもが暮らしているという事実がある以上、その存在を無視してはならないと思います。(再度書きますが、もし全員退去なさっているようならどうかご放念ください。)
個々の学生が不快と感じるかどうかに関係なく、「大人として子どもの権利を守る」という視点があっても良いのではないでしょうか。
それから別件ですがcommon senseの綴りが間違っているようですのでお伝えしておきます。
卒業生ですが、ICUでは授業中に教授に変な突っかかり方をする人が少数ながら居た記憶がありますね。「なぜ雪像が『男性器を模している』と断言できるのか、と思ってしまう」や、「批判的視野に立つと」というコメントがまさにそう。「いた、いた、いた、そういうやつ!」と思いました。「俺はこういう視点で物事を考えられるんだぞ!」という勘違いをしている学生。臭いです。
面白い記事を拝読できてよかったです。頑張ってください。
良い取り組みだと思ったよ!がんばって!
「ネオアームストロングサイクロンジェットアームストロング砲」じゃねえか、完成度高えなおい