ICU教授陣の「私の一冊」(2)

ICU教授陣が、「私の一冊」と言えるような思い入れのある本について語る新企画。第2回は、川本隆史教授(社会倫理学)、佐野好則教授(ギリシア文学)、清水勇二教授(数学)、寺田麻佑上級准教授(公共政策・法学・環境研究)の4人の先生方にお話を伺いました。


セーレン・キルケゴール『死にいたる病』(桝田啓三郎訳, ちくま学芸文庫, 1996/鈴木祐丞訳, 講談社学術文庫, 2017)

川本隆史(社会倫理学)

 半世紀も昔のこと、1970年4月に大学生となったばかりの私は、学生寮の先輩に誘われるまま哲学系のサークルの末席に連なった。学生会館の部室で昼休みに輪読した最初のテキストが、これである(デンマーク語の原著は1849年の出版/私が持参したのは、桝田啓三郎・責任編集の『世界の名著40 キルケゴール』中央公論社1966年)。

 「人間は精神である。しかし、精神とは何であるか? 精神とは自己である。しかし、自己とは何であるか? 自己とは、ひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である」という本論の書き出しからして、哲学の初心者にはまるっきり歯が立たない。先輩たちの註釈や補足説明、私自身の経験と学びを通じて、「自己とは関係である」という命題がどうにか〈腑に落ちる〉まで、2年近くかかった。国立大学の授業料値上げ反対ストライキ中の72年3月30日の午前1時7分、広島の実家で読み終えている。そのときの不思議な感動が、今も鮮明によみがえってくる。


ケネス・ドーバー『私たちのギリシア人』(久保正彰訳, 青土社, 1980)

佐野好則教授(ギリシア文学)

 手元にあるこの本の裏表紙には「1982年8月12日読了」と私の筆跡で鉛筆書きされており、ICU学部1年生の夏休みに読んだことがわかります。イギリス人で西洋古典学の碩学であったケネス・ドーバー(1981-2005)は、古代ギリシアの歴史や文化を紹介するテレビ番組を監修しましたが、その番組に基づいて執筆された本の日本語訳です。この本の中でドーバーは、ツキジデスの歴史書『戦史』、ホメロスの叙事詩『オデュッセイア』、アイスキュロスの悲劇『オレステイア』3部作、プラトンの哲学対話篇『メノン』などのギリシア古典作品を取り上げ、先進文明との関わり、それぞれの作品の舞台、歴史的・政治的・文化的な背景と結びつけて印象深く紹介してくれます。古代ギリシア人の文化が西洋文化の源泉であることを強調するこの本から、文化の伝統を長いスパンでとらえること、様々な文化を比較する視点を持つことの大切さを学びました。


藤原正彦『天才の栄光と挫折-数学者列伝-』(文芸春秋社, 2008)

清水勇二教授(数学)

 出会いは20年近く前、2001年のNHK人間講座のテキストとしてだった。本書では、古くはニュートンから存命のアンドリュー・ワイルズまで、歴史上に名の残る9人の数学者のエピソードを紹介している。どの数学の内容に分け入っていくにも、それなりの専門的な知識が必要になってくる。そういった時にいわゆる天才、偉人のストーリーを知っておくことは、勉強する動機づけにはなるだろうし、無駄にはならないと言える。

 数学者である藤原は、藤原ていと新田次郎という2人の作家の血を継いでいる。本書で9人を取り上げるにあたり、藤原は実際に彼らのゆかりの地を歩いたという。文学者的な感性も持った藤原が取り上げてくれたことで、単に学問上の功績ばかりを書いているのとは違う趣があった。数学は易しくはない学問だ。一般教育科目も含め、数学に関心を持ってもらう時に、取っ付き易さという面では、人物に焦点を当てることも重要だと思う。仮にノーベル数学賞があれば、受賞に値する人物ばかり。僕みたいな年になっても彼らの話を見ると、愕然とする部分もあるし、励まされる部分もある。(聞き手:高橋篤史)


パール・バック『大地』(新居格/訳, 中野好夫/補訳, 新潮社, 1953)

寺田麻佑上級准教授(公共政策・法学・環境研究)

 私たちの想像力は簡単に枯渇してしまう。とくに先端技術の発達により変化の激しい社会のなかでは、現状把握だけで精一杯となる。また、「自分にとって居心地の良い世界」を創り出すことに長けているSNSの発達は、自分が見たい世界以外に目を向けることを難しくし、多くの人の視野を広げるどころか狭めている。

 私にとっての一冊は、パール・バックの『大地』である。それは、激動の歴史を経験してきた中国大陸の息吹を、ある家族の清朝末期からの三世代にわたる物語とともに体感し、本の上でその時代に旅行できる小説だからである。主人公が妻を迎える朝に、意を決して、普段、水以外飲まないなかで使う茶葉。必死に農地を耕しても家族を襲う飢饉と略奪。面倒な親戚をおとなしくさせるため、あえて利用される阿片。そして革命。

 過去に目を向けることは、これからの未来を具体的に切り拓いていくための想像力を得るために必要である。私たちは、故きを温ね、新しきを知ることによって発展する。『大地』に限らず、山崎豊子『大地の子』やユン・チアン『ワイルド・スワン』も、強くお勧めしたい。