「寛容の欺瞞」 諦めと悲しみと、そこから始まるもの
〜森本あんり先生インタビュー〜[後編]
| ※この記事は前後編から成る記事の後編です。
ーー「卒業後社会に出てから職場でうまくいかなかったり心を病んだりするICU生もそれなりにいる、と聞く。ICUでの当たり前と現代日本社会の当たり前がまだ同じでないことに因ると思うが、どうすればよいか。」という質問について。
森本:それはどこでもそうだが(笑)。ICUだからという訳でもないけどね。でもやっぱり、ICUは日本の教育制度に対するチャレンジですから、風当たりは強いよ、どうしたって。無難に日本の社会の中で生活したいと思ってる人にとってはICUは面倒な大学だとは思うよ。
やっぱりICUは理想を植え続ける大学だよ。そうであり続けてほしいと思う。そういう理想を若い時に心に植え付けられた人は、その後もそういう風に働くと思うんだよ。大学の使命というのは知識を与えることだけじゃないと思うんだよね。大学の使命というのは、「憧れ」とか「理想」とか、そういうものの尊さを学生たちに知ってもらうことだと思うんだ。青臭くていいんだよ。変に世の中ズレしちゃって、「理想なんかどうでも良い」みたいなシニシズムは、そんなものは、大学を出てから十分学ぶんだよ。だから、大学にいるときは、せいぜい正しいこと、「理想」、高い理念、そういうものを植え付けて、その尊さを知ってもらうことが、僕は一番大事だと思う。(当記事末尾記載の記事の最初に)ハイム・ギノットの話を書いたでしょう。どんなに知識があっても人は残虐な人生を送れるわけだよな。
花田:先生の文章にあった「教養あるアイヒマン」の話ですね。
森本:そうそう。とりわけ、頭の良いやつは(危ない)。頭良くなるなんていうのは、どこでもできるんだよ、結局は。
花田:僕も、東大を目指していた時の自分や、その時周りにいた人のことを考えます。日本の教育の中で、とりわけ優秀な、受験勉強できる人って、みんな合理主義者になっていて、何でもかんでもわかったような態度を取る人が多かったように最近ものすごく感じます。それで、自分も昔はそうだったということがものすごく恥ずかしいという気持ちがありました。
森本:僕はそういうところでは戦闘的だからね。そういうシステムに疑問を抱かない人がいると、学校の中でも外でも突っついてみたくなるね(笑)。
ーー「朝井リョウの『正欲』を森本先生はどう読んだか。」という質問について。(森本先生の『不寛容論』と通づるところのある小説であるだろうから、という趣旨の質問。ブログでも先生が実際に読んだ感想を述べていた。)
森本:『正欲』は面白かったし、朝井リョウさんは僕の『不寛容論』読んでるから読んだんだけど、もうあらすじぐらいしか覚えてないよ(笑)。
花田:なるほど(笑)。僕は最近読み直したんですが、「みんな多様性を持ち上げていい気持ちになるけど、突き詰めて考えるなら、多様性とはそもそも、どうしても分かり合えない他者の存在に気づいて、どうしても嫌な気持ちになってしまうものだ」というような記述があって、確かにその通りだなと思いました。
森本:そうだな、僕もそれにはすごく共感するね。そういうことに全然気が付かないで、「多様性」だとか「リベラル」だとか思っている連中にNOを突きつけたい、それが僕の『不寛容論』だからね。寛容100%の人だって、国だってどこにもない。トランプさんのところでも移民の問題が議論されてるけど、移民を防ぎたいと思うのは当然だと思うよ。リベラリズムはそのことを理解していないし。だから、リベラルってみんなインテリなんだよ。みんなそういうところで自分の思想と(現実が)ズレているってことに気が付いていないね。
花田:僕は最近、そもそもなぜ自分がリベラルな立場にいられるかとか、なぜ正論めいたことを考えされられるようになっているか、とか、そういうことを考えます。自分が今の立場じゃなかったら、今と同じようにリベラルな考えとか持っていなくても全然おかしくはないよなとか、感じます。
森本:リベラルはみんなね、貧しい者や弱い者の味方だと自分のことを思ってるの。でも実はそうじゃないんだよね(笑)。自分たちは勝ち組なんだよ。その辺の欺瞞だな。トランプの支持者なんかも腹が立っているのは。
花田:うーん、なんだろう。そもそも「わかりあう」という言葉自体に僕は結構懐疑的なんですけど。どう頑張っても絶対に想像できないようなこととか、色んな限界は色んなところに転がっているし、それ(限界)を認めて、でもなんとかしたいという気持ちからがスタートなんじゃないかなー、っていうことを、最近は切に感じます。
森本:そうだね。「お互い話せば分かり合える」とかね、そんな甘っちょろいこと言ってるんじゃねーよ、みたいなことだな、僕の感じとしては。お互いに絶対に理解できないという、そういう根本的な、深刻な対立に直面したことがないと、そういう幻想を抱くんだよ。
花田:僕は、「善き人間に、優しい人間になろう」って、思わされるような出来事が中学生の時にあって。でも結局最近になって、自分に余裕がない時に他人にあまり優しくできないし、優しくなろうなろうと思っても、根本的にはなれてないじゃないかっていう、限界じゃないですけど、限界に近いものを感じて。どうしてもどうにもできないこともあるんだなという悲しい気持ちになりつつ、でもなんとかしたいなという気持ちになってました。
森本:そこが寛容論の一番大事なところなんだよ。自分の内心とね、やることが違っているというので良いんだよ。イエスが聖書の中で「敵を愛しなさい」と言ったのは知ってるだろ?あれをよーく見とけ。「敵を愛せよ」ってことはだよ、人類みな友達じゃないんだよ。初めから敵なんだよ。人類みな友達です、なんてイエスは言わないよ。あなたには敵がいるんだと。そこから始まるんだよ。
花田:確かに、イエスの考えや、寛容の話題でも、「人類皆友達」って勝手に解釈する人ってちょっと多そうですね。
森本:(その解釈は)違います。
花田:「イエスは「人類皆友達」って言いましたか」って質問されたら、「言いました」って答える人も多そうですね(笑)。
森本:多そうだな(笑)。よーく見て(考えて)くれ、ってことだな。
まあそれぐらいにしとこうや。記事作り頑張って。いい勉強してください。
花田:ありがとうございました。
編集後記
インタビューのやり取り「そのもの」を記事にする、とこちらから事前にはっきりさせられていなかった、という中々の失態をしてしまった。その点で、森本先生から軽いお叱りを受け、「インタビューそのものが記事になるとわかっていたら、おそらくこのような自由な話ぶりにはならなかったでしょう」と言われてしまった。それにも拘わらず、この形で記事にすることを了承してくださった先生には感謝しかない。他者が話す内容以上に、どのような口調で話すか、ということにもっと敏感になってみようかなと思った。新たな発見がありそうだ。ちなみに、私は、青臭い理想をできれば死ぬまで持ち続けたいと思って、哲学を探求し続けて生きようと思っているのかもしれないと、最近たまに思う。
[RN,花田太郎]
WEB掲載にあたっての編集後記 2022/5/22
「寛容」と「対話」は似ていると感じる。実践しようと思えば思うほどに、その限界を実感させられてしまうという点で。「結局自分達の正当性はあまり疑おうとしない」という致命的な過ちを犯しやすい点も含めて。ICUが謳う「批判的たること」は突き詰めれば、死ぬまで終わらない自己批判という、自己破壊と再構築の道を歩み続けることだと思うし、だからこそとてもしんどいものだと思う。「寛容」も「対話」も同じようなものだろう。記事を書いたり、大きなホールでイベントをやったり、そうした「啓蒙」になってしまいがちなことではなく、自分個人として、出会う個人と1対1で丹念に向き合い続けること以外に、こうした「理想」に至るための正解(のようなもの)などないのではないだろうかと最近感じてしまう。やはり自分は甘いなと思う。
[花田太郎]
「国際基督教大学(ICU)の教養教育」
森本あんり
「わたしは強制収容所の生き残りだ。わたしは、人の目が見てはならないものを見てきた。優れた技術者がガス室を作り、教育のある医師が児童に毒を盛った。熟練した看護師に幼子が殺され、大学出の知識人に女と子どもが撃たれて焼かれていった。だからわたしは教育というものに懐疑的だ。わたしの願いは一つ。学生たちが人間らしく成長できるよう助けなさい。学識ある怪物、技術に強い病的反社会人間、教養あるアイヒマンを生み出してはならない。読み書きも算術も、子どもたちをより人間らしく育てるのでなかったら、何の役に立つだろうか。」
これは、児童教育の専門家であったハイム・ギノットの言葉である。ほとんど大学教育に対する弾劾の言葉といってよい。同時にそれは、「教養教育」という曖昧な日本語に明確な輪郭を与える。「教養教育」とは、小洒落た装飾品の別名ではない。「いかにして人間がより人間らしくあり得るか」を追求する教育である。
本号では各大学が教養教育の実例を紹介することになっているが、昨今日本の大学に向けられた画一化への要請からすると、その内容は多少とも似通ったものにならざるを得ないだろう。ICUの教養教育についても、カリキュラムのことだけでなくキャンパスや入学者選抜のあり方など、個別に紹介したい内容は多いが、ここではそれらを成り立たしめている基本的な前提のことを書いておきたい。それは、教養教育における理想や理念の意義である。
どの大学にも、それぞれに目標とするところがあろう。第一線の研究者を養成するとか、国際化の水準を高めるとか、あるいは授業内容を充実させる、といった具体的な達成課題である。しかし、もし大学が「教養教育」を掲げるならば、それらとは別のもう少し遠いところに、何らかの人間理解や向かうべき理想像があるはずである。私学なら創設者の志や建学の精神にそれが表現されているだろう。そこにこそ、他大学が真似しようにもできない固有の輝きがある。
戦争の荒廃から平和を祈願しつつ設立されたICUの教養教育には、特にこの理念的な色彩が強い。創設者たちが「国際・基督教・大学」などという臆面もない名称を選んだ時点で、それは本学の運命となり使命となった。今も深く教職員に共有されている理解によれば、教養教育は何よりもまず学生に「夢」を語り「幻」を見させなければならない。歴史を通して人びとが求め続け、なお達成することのできない理想を、それでも追い求め続けるべき尊い価値として提示し続けなけねばならない。そのような理念の駆動力なしには、どれほど環境を整え質の高い教育を提供しようとも、学生たちは与えられた餌を食べて肥えるだけの従順な家畜にしかならない。手段は後で学べばよい。失望や幻滅も後からやってくる。それでも生涯を通して学び続けることができるのは、若き日の魂に志と信念の深みを宿すことのできた者だけである。
「世界人権宣言」とICU
こうした理念の具現化の一つが、1948年の国連総会で採択された「世界人権宣言」への署名である。ICUでは、1953年の開学以来今日に至るまで、すべての学生が入学に際してこの宣言に署名し宣誓する。当時の日本でほとんど知る人のいなかった「世界人権宣言」だが、その起草委員会の委員長であったエレノア・ルーズヴェルトがICU創立委員会のメンバーでもあったことから、ICUでは早くからその存在が知られていた。ルーズヴェルト夫人は、第一回の入学式直後にキャンパスを訪れ、学生たちに直接この宣言の意義を語っている。
同じように、初代学長の湯浅八郎も、ICUは「人種、国籍、言語、性別、宗教、思想、イデオロギー、職業階級、社会的地位、経済的能力等一切の差別」を超克する大学であると語り、初代学務副学長モーリス・トロイヤーは、「高等教育は、偏見が取り除かれ、人が解放される過程 (bias reduction)でなければならない」と語っている。まさに「人を自由にする」リベラルアーツの本義である。
しかし、学生たちにこうした思いを伝えることは、当時も今もけっして容易ではない。草創期からの教員で昨年没した思想史家の長清子は、今から半世紀以上も前の新入生に次のように語っている。「私は、今日の日本の大学には『理想』が失われているように思う。『理想』などということがむしろ、何か気恥ずかしい骨董品のようなものとなっている感がなくもない。若い人たちは早くより損得の見分けに長け、自分に得にならないものには関心を持たないように自らを訓練し、社会に出て最も有効に有利な地位を獲得するために合理的な道筋を計画立てて大学を選択し入学する。そういう場合、大学は学生の立てた人生目標にむかって学生を導く上に最も合理的に奉仕するものであるか否かが必要問題なのであって、大学の理想などというものは昔の角帽の徽章ほどの意味もないということになるかもしれない。」
ICUに入学した諸君にも、それぞれに打算的思惑があるかもしれない。「だが」と長清子は続ける。「ICUに入った以上はここでちょっと立ち止まって、この大学はどういう目的と理想とに立ち、どういう人間を形成しようとする大学なのかということを私共と一緒に考えてもらいたい。国際基督教大学はその目的と理想を本当の意味で大切にする大学であり、教授も学生も大学の現実がそれにふさわしく形成されつつあるかということに関しては、常に遠慮なくきびしい問いかけをしあう大学だからである。」
もちろん、署名や宣誓をしたからといって、精神がそのまま現実になるとは限らない。これは1963年すなわち開学後わずか10年の講演だが、学生たちの間にはすでにその時点で無理解が広まっていた。長清子は、そういう学生たちに向かって、人権宣言の尊さとそれに参与することの世界史的な意義を諄々と語り直したのである。このメッセージは、現在も学生用ウェブサイトの最上段に置かれており、新入生オリエンテーションなどの際にしばしば引用されている。ICUの教養教育は、こうした理念に献身する精神を不断に維持する努力があってはじめて機能する過程である。
一般教育の意義
ICUは教養学部だけのリベラルアーツ大学なので、全学生の四年間すべてが教養教育である。その中核部分を構成する「一般教育」General Educationは、湯浅学長によれば、「戦前の大学の在り方や世間の大学の期待等に対する反省と批判」に基づき、「責任をとることのできる実力あり道義ある市民」を養成するために、「専門的知識と技術とを習得するだけでなく、人格として、一個の人間として、良識と良心の持ち主であること」を求める人間形成の場である。
したがってそれは、専攻を前提とした初学者のための導入教育ではない。専門と並行して履修することにより、自己の専門を別の角度から捉え、他領域と関連づけて考えるための授業である。担当者は、各分野で専門科目を教える教員でなければならない。狭い専門を教えることは学位を取得したばかりの駆け出しにも可能だが、当該分野の全体を見渡し、その核心や精髄を専門以外の学生の興味と関連させて教えることは、その道を究めた大家でなければできないからである。
学生向けの「一般教育ハンドブック」には、次のように記されている。「本学が育成することを願う人間像とは、自分の社会や文化の常識を当然視することなく、未知の価値や思想に接して対話を重ね、他者との新たな関係の中に自己を見つめ直すことができる人です。」学生はそこで、自分が予想だにしなかった心躍る学びを知り、想像もできなかった新しい世界に出会って圧倒されることになる。
もし、ダニエル・ブーアスティンが言ったように、「自分が知らなかったということすら知らなかった」ことを学ぶのが教育であるとすれば、自分の無知に気づいて学び始める専門課程よりも、このような一般教育こそが本来的な意味での教育だということになろう。
(国際基督教大学 学務副学長/神学宗教学)
出典:IDE 2019年5月号
森本あんり 公式サイトhttps://morimotoanri.com/