[2022R-Weeks(6/6~6/17)迫る‼︎]
逆説的な「優しさ」と、逆説的な「強さ」
2021R-Weeks 千葉雅也氏講演会 体験記[後編]

※この記事は前後編からなる記事の後編です。

逆説的な「優しさ」、現実の「割り切れなさ」

 そもそも、私は思う。生まれ持ったセクシュアリティに基づく差別と構造的に同じ差別、例えば容姿や性格、思考力などに起因する、差別とまでも言い切れない理不尽さに、誰だって直面する。そんな時に、適度に守ってもらって、でも自分で解決しなきゃいけない部分もありながら、向き合いながら生きているのに、なぜセクマイだけが「過保護」に扱われて、それが最適な処置とされなければならないのだろうか。

 思い出したのは、俗にいう「ハーフ」のインフルエンサーのこと。自分の肌の色の黒さを自ら積極的にネタにし、本人のネタ化に乗っかって面白おかしくコメントする視聴者。それに対して一部から、「肌の色をいじるコメントなんて言語道断」「本人としても実は不快になってませんか? やめてって言った方がいいですよ」という物言いがついた。それに対して本人の応答がどうであったか。「日本人タレントで同じこと(肌の色のネタ)やってる人には誰も何も言わないのに、自分が半分「黒人」だから、『こいつはそういうことをネタにしていじっちゃダメ』って言うのはなんで?」と。

 「なぜ過保護するの? 」「そんなに『誰かが守ってあげるしかない存在』だと思われているの? 」そのような切ないメッセージだったと思う。実際に彼は「その『優しさ』に、逆に自分は傷つけられた」と、かなり直接的に訴えてさえいた。

 「セクマイはセクマイ、結局はマイノリティである」「フォビアはいるし、いなくならないし、なんなら排除するべきでもない。それは人間を思考停止させる。人間が、人生が浅くなる」「『同性愛者です』などの発言から、自然と性行為について連想されてしまうことが一般的によくあるという。でもそんなの仕方がないじゃん」「セクマイとそれ以外のマジョリティが、完全に平等になる世界、そんなのはユートピアである。そして、ユートピアほど暴力的なものはない」これらも全て千葉さんの言葉だ。これらを発すること、それ自体が既に「覚悟の表明」だと言えるだろう。たとえこれだけ言葉で形として表明されずとも、マジョリティと同様にマイノリティも持っているに違いない、それら「覚悟」を、押し付けがましい「優しさ」でマジョリティは踏み躙っているのかもしれない。千葉さんの言葉たちを何度も反芻しながら、私はそのことにますます思いを巡らせている。

 一方で、これらのことを論じる非常な難しさも、今、私自身感じている。どこまでは「介入しないといけない」「理不尽」で、どこからが「過保護」になり得るのか。例えば人種差別などの問題も、この様な「適切な介入と、過保護」の視点を同様に差し込みうるのか。そのような「精査」や「予断」が許されるような現実で、そもそもあるのか。

 でも、もし以下のような論理に流れてしまうとしたら、一度立ち止まって考え直す必要があるとだけは、断言できる。 

 それは質疑応答のセッションの終盤、講演全体も終わりに差し掛かったタイミングだった。元々、講演のどこかで、「新潮45」における杉田議員の発言(=自民党の杉田水脈衆院議員が、LGBTを「子供を作らない、つまり『生産性』がない」などと表現した寄稿が「新潮45」8月号に掲載された)批判の件と、それに対する自身の反応のことを千葉さんは言及されていた(杉田議員批判の盛り上がりに水を刺すようなことを言ったらしい)。その、この件への千葉さんの反応や、前述のような「差別を丸っ切りなくすのもどうなのか」とも受け取られかねない理論(実際の趣旨とは少し違う理解ではあると思うが)の展開から、千葉さんに対して、「杉田議員のような差別的言動を擁護しているのでは? 」と問いかけるような趣旨の質問があった。質疑応答は、千葉さんだけが質問一覧を閲覧できて、答えようと思った質問に答えていく形式で進められたのだが、この質問を選んで回答しようという時、千葉さんは無視できない程度に感情的になっていた。「差別的発言をした人物を、わかりやすく批判していなければ、即ち擁護している、ということになるのか?批判するか擁護するかの二者択一でジェンダーの問題は切れないのだ、単純な二項対立にいい加減うんざりしてしまう」と。

 そうなのだ。割り切れなさを、無理してでも割り切ってしまう態度が蔓延していること。それこそ、この質問にも如実に現れているような形での「理解」が至る所に溢れている気がすること。それを「時代は変わった」という言葉でひとまとめに、あまつさえ、ポジティブな声色で、生き生きと語られうること。それらの言動に対して、そういう側面のある現代に対して、千葉さんは「アイロニカル」なのだ。そう断言できるのではないだろうか。

 

セクシュアリティの実際と、「倒錯」

 また、千葉さんが取り上げた「倒錯」の概念も、「棲み分け」に反対するための、もう一つの理論として、ここで漏らさず紹介する。そもそも、「異性愛」と「同性愛」に確実に分類できるほど、現実は単純でない、という視点があるという。人間の(性的な)本能は、動物としてのそれがそのまま現れているわけではない。即ち、オスとメスが繁殖の為に性行為に走るという形だけではなく、「より流動的に性欲動の可能性が開かれている」という。

 ちなみに、ここで密かに前提化されている、人間以外の動物は繁殖目的の、オスとメスでの性交しかしない、という考え。これが本当に前提化できるのか、という私個人の疑問はここではスルーしておく。

 とりあえず、刷り込みでも、社会的通念でも、直接的に教育でも、異性愛をそれなりに強く押し付けられないと「人間は、意外とよそ見して、倒錯した(=繁殖の為の、オス・メス同士以外の)性行動に走りがち」らしい。

 だからこそ、種々のセクシュアリティを持つ人々に、互いとの交流を通して「微妙な揺らぎが生じ、互いの欲望に少しでも理解が生じる」ことが必然的に想定できるということだ。『異性愛者の中の同性愛的な要素、同性愛者の中の異性愛的な要素に、各々が気づくこともありうる』とも、千葉さんは表現した。セクシュアリティは、私たちの想像よりも簡単には白黒つけられないという示唆がさまざまな知見から既に得られているのだから、そこに目を向けよ。「重なる欲動の多様性」に目を向けよ、ということだそうだ。だからこそ余計に、棲み分けを図るべきではないのだ。そのような主張なわけである。制約がない場合の人間の性的倒錯性、不確実さなど、学術的確証に多少なりとも依拠は絶対していそうな視点や考えなだけに、それも含めて解説し伝えられないことは申し訳なく思うばかりではあるが。

いかにしてジェンダーに向き合うべきか

 最後に、放置してここまできた感もややあるが、「カミングアウトしようとしない言論者たち」という事実が紹介されていたことに、再度触れたい。ジェンダーを取り巻く政治や社会が公共政策的である、本質を捉えていない、とは、実際の講演でもこの体験記でも重ねて強調されてきたことであるが、千葉さん曰く、ジェンダーを性の問題として「一般に」考えるのでも、まだ足りない。ジェンダーにより深く向き合うことを志す人には、自分に端を発する、「何を楽しいと思うのか」「何を快楽と思うのか」を以てして、プライベートをむしろ学問と結びつける試みに期待する、という。

 私は、個人的側面を排除できないことこそが、ジェンダーをより論じにくいものにしている、というか、本質的な論点以外で揉めて議論が捗りにくい状況を産んでいる原因、だと思っていた。だが、このような、切り離せない絶対的な個人性、そこにジェンダーを考えることの難しさだけでなく、ジェンダーが今よりももっと万人にとって自分事として受け止められるようになり、普遍的な「学問」に上り詰める可能性も同時に見出せるのかな、と考え直すに至った。

 社会がジェンダーを「性の問題」と捉え、かつ、もっと「複雑さ」を「複雑さ」のまま受け止めようとする姿勢が求められている、というのが第一のメッセージなのは明白だ。それよりも進んだ要望として千葉さんは、今度はジェンダー研究への従事者のみならず、あらゆる立場の人に向けられた言葉であろうが、「自分の欲望の複雑さを自覚して、人生を生き」てほしい、と講演の最後に話された。それが即ち、他者を複雑な他者としてそのまま受け止めることに直結するのだろうと、私は予感している。

複雑な生を生きる私の意志

 「そんな単純な話じゃないよ」と、当事者であれば反射的に感じてしまうであろうことに関する訴え、メッセージであったと思う。つまり、本当に相手のためになっている「優しさ」であるかどうか、本気で相手の立場に立って考えてみようと思えば、すぐに思い至っても良かったかもしれない類のこと。それらを私は、講演を経て、初めてちゃんと考え始めたな、と反省の多い体験になった。

 そもそも、あらゆることに対して、「人に説明できるように理解する」を信条としがちな私にとって、「なるべく簡潔に、簡略に、構造を掴んで理解しよう」という意識が、ジェンダーの問題に対しても変わらず向けられていたことは、ある種非常に不適切だったとも思わずにいられない。

 ともあれ、「マゾヒズム」を掘り下げる際に引用した千葉さんの言葉、その1つには実は続きがあり、それを含めてもう一度引用し直して、この体験記の締めくくりをしたいと思う。「許容できる経験とできない経験を分つ線はケースバイケースであり、同じ人においても一定ではないし、一定にすべきものでもない。人生とは、否定と肯定、苦痛と快楽が混じり合い、その混じり合い方が変化していく複雑な物語であり、その様な複雑さを生きることが「強さ」だと言われるべきである」

 私に、特に欠けているような、この「強さ」。私にとって「わからない」はとても恐ろしいことであり続け、携えて共に生きようとは到底思えないものだから。「わからない」は即ち「弱さ」という意識が特に強いのだろう。知りたい、「わかり」たい、を解決せずにはいられない私の傲慢さ、「子供」っぽさにも気付かずにはいられない。それだから当然、「わからない」まま生きること、複雑さを生きることは、特に私という人間にとっては苦しいものである、少なくとも今この時点では。私は、この、私にとっての「弱さ」を肯定してよいのだろうか。あまつさえ、これを「強さ」と捉え直してもよいのだろうか。また、そうするべきなのだろうか。少なくとも、千葉さんの言説に従えば、その許可は与えられている気はするが。

 でも、いや、だからこそ、というべきか。肯定はしてやらない、少なくとも、『わからないものがほんの少しはあってもいいや、それも「強さ」だから』とは収まらない、と強く叫びたい。『自分の「弱さ」は、実は「強さ」だったのか』なんて、簡単に納得できる訳がない。そもそも、「わからなさ」を否定か肯定かでしか受け止められなければ、それ自体「複雑さ」からの逃避でもある訳だが。「わからない」とは、肯定も否定もできないもの、というのが1番相応しい答えなのかもしれない。

 だが私はここであえて、この「わからない」を否定することを選ぼう。「わからない、でも、わかりたい」と、「大人」になれない自分のままでいてやろう。「複雑さ」を「複雑さ」として抱えながら、「わからない」に正面からぶち当たりながら、「自分の『弱さ』が恨めしい」と苦しむ、まさにその瞬間において、いつの間にか「強さ」を体現できているような、そのような生き方をできたら、それに勝る喜びも無いだろう、と思う。

【花田 太郎】

[web掲載にあたっての編集後記]

友達にやたらと「迷惑かけたね、ごめん」と言われると、かえって悲しくなることがある。その友達は、僕のことを思いやるが故に、それだけ「ごめん」を繰り返しているのだろうけれど。僕は自分の人生に起きた「悲劇(とほぼ確実に受け取られてしまう出来事)」について、他人に如何に伝えるかについて常に四苦八苦する。僕という人間を理解してもらう上で絶対に省くことのできない出来事なのだが、それを聞いた相手の反応はいつも、僕が求めるものとは違うから。それで少しだけ悲しくなってしまうから。最近は、「沈黙は金」であるとよく実感する。この記事を書いてちょうど一年たったが、今でも僕は、自分の「弱さ」が恨めしくて、「大人」にはなれなくて、甘い甘い子供のままだなと思う。だからこそ、いつまでも学んで、愛して、いつか死ぬまでは、全力で永遠に生き続けたいと思えているのだな、とも感じるけれど。

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