【寄稿】ICU生が北朝鮮で見たもの、感じたこと
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日朝学生交流報告会Part2「私たち、ピョンヤンに行ってきました。」
日時:12月6日(日) 14:00~16:00
場所:東京ウィメンズプラザ
https://www.facebook.com/events/1644192022495245/
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この春にTransferとしてICUにやって来て、国際色の強い環境に日々身を投じながらも、特にSEAプロや海外への留学に興味も湧かない私は、きっとこの夏を、ゆっくり読書でもしながら、模擬国連やら何やらで、忙しいなりにいつも通りの夏を過ごすのだと思っていました。ある6月の日曜日、突然ピョンヤン行きの話をもちかけられるまでは。
――みどみど、平壌に行けるって話に興味ない?
私は以前神戸に住んでいたのですが、声をかけてくださったのはその頃のサークルの先輩でした。複数のNGOが共同で行っている「南北コリアと日本のともだち展」という事業があること。それは、南北朝鮮と日本の子供たちに絵を描いてもらって日本、中国、韓国、北朝鮮で巡回展を開き、現地の子供たちにメッセージを書いてもらってそれを持ちかえって届けるという、絵を通した交流事業であること。そして近年それに付随して、平壌外国語大学の日本語学科の学生と日本の学生との交流を行っていること。
そう、平壌――ピョンヤンに行くということは、北朝鮮に行くということ。
私は一も二もなく飛びつきました。そんな―――そんな面白そうな話、乗らないわけはない、じゃないですか。ひたすらに自らの好奇心に忠実に、私は渡航を決めました。
さてこの記事を読んでいる皆さんは、「北朝鮮」と聞いて何を想像しますか? ミサイルや核実験でしょうか? それとも拉致? あるいは軍事パレード? 何にせよ物騒な言葉が多いのではないでしょうか。誰に教えられた訳でもないけれど、どことなく暗くて、陰鬱で、重い空気が漂っているイメージ。行きたいなんて人がいたら、大丈夫!? 無事で帰ってきてよ!? なんて言いたくなりませんか? 実は、私も送り出す立場だったら言葉にしなくてもちょっとは思っていたでしょう。だって、送り出す私は一度も北朝鮮に行って現地を見たことがないのだから。
さて、前置きが長くなってしまいましたが、ここからは実際に私たちが渡航した時の様子を伝えていきたいと思います。今から私が紙面上で語ることは時間の都合上報告会(後ほどまた宣伝します)ではそんなにお話しすることができないと思いますので、是非とも両方楽しんでいただけたらと思います。
知っての通り北朝鮮は日本との国交がなく、おいそれと行ける国ではありません。だから私たちは丸一日中国に滞在して、そこの北朝鮮大使館でビザを取得しなければなりませんでした。
実は渡航前日からニュースでは、韓国の地雷爆破事件をきっかけとして、南北の緊張が高まっているという報道がされていました。しかも、中国では携帯が使えないので続報が全く入ってこない。8月21日の事です。
正直に言うと、出国前にニュースを聞いてからそれまでは期待する気持ちが少なからずありました。向こうの文脈での軍事的な緊張というものを知ることのできるまたとない機会だし、それを市井の人がどう受け止めているのかという答えを得られると思ったからです。ストレートな興味と期待。それに加えて、胸のどこかでひっかかるような純粋になりきらない気持ち。夜にホテルの部屋で、参考資料としてもらった安倍談話のプリントに目を通して、明日起きたら南北関係が悪化していて入国拒否とか言われたらどうしよう、などと考えていました。
結局はそんなこともなく無事に飛行機に乗り、平壌国際空港に入りました。今年の7月にリニューアルしたという空港は、とっても綺麗でした。写真も掲載してもらいましたが、これは合成とかではなく本当にこんな感じです。
さて、初めてのピョンヤンで何が待っているのだろうという冒険心に満ちた私を最初に出迎えてくれたのは、空港にいる軍人さんたちで、しかし彼らが余りにも普通に喋って普通に笑う人たちだったので思わず拍子抜けしてしまいました。きっと、日本人が嫌われているあまりに、見るだけで嫌な顔をされるのではないかと身構えていたからというのもあると思います。
税関を通る前のお土産物屋さんにふらふら歩いて行っても特に見咎められもせず、そんなものなのか……? と思った場面もあり、そうかと思えば、例年より検閲が厳しいらしくパソコンが検分されて、その緊張や警戒という側面を見ることになり、ここに来ていきなり直面した二極の振れ幅に私はいささか戸惑っていました。
そしてその気持ちのままゲートをくぐって集合すると、この事業で北朝鮮に何度も来たことのある方たちは、当たり前のようにお知り合いの通訳の方と話をされていて、彼らは当たり前のように顔見知りで、初渡航の私たちもそれが当たり前のように説明を受けて事が進んでいきました。
まあ確かに入国した後にこういう流れになるのはそうなのですが、あっけないといえばあっけなく、では私は何を身構えていたのかというと、具体的な何かを期待していたわけでもなく、要は当たり前のように当たり前のことが行われていて、戸惑いながらも、まあそんなもんか、そんなものなのかと納得したような、成り行きに身を任せているような不思議な気分でありました。私がピョンヤンに着いてまず初めにやらなければいけなかったのは、どこから湧いて来たのかわからない自分の変な予想を裏切った普通の現実についていくことでした。
この滞在期間中、私たちはたくさんの施設を見学し町の様子を見るわけですが、実は平壌市内の写真って、結構ネットに転がっているんですよね。皆さん是非Google検索をしてみてください。凱旋門とか三角形のガラス張りの建物(ホテルだそうです)とか、色とりどりのアパートとか、でっかいスタジアムとか、いろいろ出てきます。ですので、ここでは私が出会った北朝鮮の学生の姿、私たちが得た友人たちの事について主にお話ししたいと思います。
初日に、私たちが一番気になっていた朝鮮半島の情勢について、バスの中で共和国政府の声明を訳したものを頂きました。ちなみに向こうでは「北朝鮮」という呼称が嫌われるので、私たちはずっと「共和国」と呼んでいました。したがって現地の話をしている間は、この記事でも「共和国」呼びを採用したいと思います。
その声明文の紙面上での言葉遣い、ガイドさんのお話、それを聞く通訳さんたち(うち2人は平壌外大の日本語科の生徒)の表情。現地で見聞きして現地のコンテクストで感じる「休戦」の重みを感じて、今でも、これはきっと同じ話を日本で聞いても、同じようには分からなかったことだろうと思っています。
結局私達は、滞在四日目に準戦時体制解除の報せを聞きますが、その続報のニュースを偶然にもテレビのあるラウンジで外大生たちと一緒に静聴しました。彼らと打ち解けたころにそのような、戦争についての話をして、ピョンヤン滞在中何度も「革命」や彼らの指導者だけではなく、朝鮮半島全体の歴史に関わる施設を訪れることになり、その度に私はこの国が辿ってきた歴史に思いを馳せ、もう一度目の前にある景色を見て現在を肌で感じ、未来というものを考えてみるのでした。
共和国が私たちの歴史とも無関係ではあり得ないということは知っている筈なのに、今まで意識の埒外にあったこと、なんとなく知ってはいるけれど知識としては欠落している朝鮮の事、そこで暮らす彼らのことについて、私は三日間あった学生交流の時間中にたくさんの話を聞きました。それは戦争についての話であったり、彼らの民族の話であったり、彼らの家族の話であったり、彼ら自身の話であったりしました。
中でも一番印象的だったのが、その準戦時体制解除のニュースをラウンジで見た後、「今まで緊張状態にあったけど、戦争は怖い?」という話になったときでした。彼女たちは落ち着いた表情で「ううん、戦争になるかなという思いはあったけど、怖くはないかな」と言っていたのです。滞在中何度か戦争についての話は聞いたけれど、休戦はあくまでも休戦で、いざ戦争が始まったら国を守るために戦う、と、聞いた人は皆話してくれました。(その時、私達の日常とはあまりに乖離した言葉が当たり前のように彼らの口から発せられる現実に吃驚したのです)
そのほかにも、知っている日本人の名前を聞くと、真っ先に挙がったのが伊藤博文、そして豊臣秀吉、小西行長。みんな朝鮮総督府や、朝鮮出兵に関わった人たちの名前だったり。
安倍談話についてどう思うかということを、ぽつりぽつりと話したり。
もちろんそんな難しいことばかりではなくて、妹が美大に進もうとしているだとか、学校を卒業して、将来は記者になりたいとか、外交官になりたいというようなことを話してくれたり。
祝日の話をしていて、お正月には親戚一同が集まって子どもたちが凧揚げなんかをして遊ぶんだと嬉しそうに語ってくれたり。
共和国にも七夕があって、織女と牽牛(織姫と彦星ですね)にお願いごとをすると言っていたから、日本では恋人が欲しいとお願いする人が多いよという話をしたら、「ええ?子供じゃないのにお願いするの?」と苦笑いされたり。
平壌外大に入って日本語科を選んだのは先生の勧めからで、教材も充分ではないし将来使い所もないから面白くなかったけど、今回の交流で日本語を勉強していて良かったという事を話してくれたり。(向こうではマイナー言語扱いなので、そう言ってもらえて本当にうれしかったです。)
一つ一つの話が新鮮で、興味深くて、まるでキャンバスに色のついた筆を入れていくような気持ちでした。今まで不明瞭だった何かぼんやりとした虚像が、質量のある実像になっていくようにも感じました。
日本の学生も平壌外大の学生も、時には緊張したり戸惑ったりしたことはあったけれども、渡航前に予想していた以上にあまりにも普通に話をして、かけがえのない、大切な友だちになりました。自国の人以外の友達ができてうれしいと、みんなの前で言ってくれた人もいました。
「来年、また会いましょう」
交流最終日の別れの時。日朝共に何人が果たせるかもわからないけれど、もしかしたらもうずっと会えないかもしれないけれど、それでも言わずにはいられない。そんな気持ちを抱きながら、みんなで歌を歌って、手を振って別れました。
この夏私は、近くて遠い北の国で、何物にも代えがたい経験と、もう一度会いたい友人たちとの出会いを得たのでした。
最後に申し上げますが、私は朝鮮半島の専門家でもなんでもない、ただ今年の夏ピョンヤンに行ってそこの大学生と友達になった、というそれだけの人間です。日朝が抱える問題の深さについては帰国後に学ぶ事の方が多かったし、正直なところ、見解を述べるほど知識があるかといえばないのです。
また、今回見てきたのも情勢の悪化により特にピョンヤン市内のみで、私が見てきたものはあの国の全てではありません。私にとっても、一回行っただけでは、いや、むしろ行ったからこそ余計に疑問が増えたくらいです。
しかし同時に、私が見てきたものもまた一つの姿であるのです。あの町は彼らの故郷であり、彼らの家族が暮らし、学校に行き、職場に行き、友人と語らい、日々を過ごす、そういう場所であるのです。
渡航するまで私も気付かなかったことなのですが、そこにいる相手が想像できるようになるって、すごく大事なことだと思うのです。きっとそこからでないと、見えないことも多いはずです。とはいえ、見たことのないものを想像することは、とても難しい。
それでもこの経験を多くの人に伝えたい、少しでも関心を持ってもらえれば、と、今回筆を取らせていただきましたし、記事冒頭に告知がされている「報告会」も、そのような思いで企画しています。ですので、最後に報告会への導入となる宣伝をさせていただきます。
この報告会では、私や他の日本の学生がピョンヤンで具体的に何をしていたのか?(実は観光や山登りとかもしてたんですよ) 町の人々の様子はどうだったのか? ピョンヤンの大学生ってどんな人たちだったのか?
などなどを、Google検索では出て来ないであろう私たちが撮った写真や、現地で撮ったビデオなども交えてご紹介したいと思います。この報告会では私長尾も登壇者として色々とお話させていただきますので、この記事を読んで少しでも興味をもたれた方がいらっしゃいましたら、どうか皆さまお誘い合わせの上ご来場ください。事前申し込み制の先着順です。
そして本当に最後になりましたが、ここまでお読みいただいた皆様と、時間がない中でこの企画を通してくださったWeekly GIANTS編集部の皆様に格別の感謝を申し上げて締め括らせていただきます。
本当にありがとうございました。
国際基督教大学2年
長尾碧