人間は動物以下!? 村上陽一郎名誉教授『ヒトから人間へ』 第2回ICU同窓会リベラルアーツ公開講座

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講演中の村上陽一郎名誉教授。聴衆は熱心に耳を傾けていた。(photo by Takahiro Takizawa)

 

9月10日(土)、日本プレスセンタービルにて、国際基督教大学同窓会主催のもと「第2回ICU同窓会リベラルアーツ公開講座『ヒトから人間へ―本能から自由になった人間-』」が行われた(第1回の模様はこちらhttp://weeklygiants.co/?p=4913 )。リベラルアーツカレッジとしてのICUをより多くの人に広めることを目的のひとつとする本講演は、今回は新たに大学からの正式な協賛も受け、聴衆は前回の約130人から約260人とおよそ2倍に膨れ上がった。大好評に終わった前回に引き続き、日本アスペン研究所副理事長であり、東京大学・国際基督教大学名誉教授の村上陽一郎先生を講師に、人間はどう形作られるのか、どう生きたらいいのかを考える。

 

昨年の第1回講座では「大学とリベラルアーツ」をテーマとし、リベラルアーツの歴史、現在のリベラルアーツの在り方について講演が行われた。今回はその延長として、自分自身を確立していく、というある種の教養と捉えることのできるプロセスについて語っていただいた。

村上先生は種としてのヒトの特性のひとつとして、Adolf Portmannの「生理的早産」という言葉を紹介した。他の大型哺乳類と違い、ヒトは未成熟のまま産まれてくる。その結果、子供と母親(役)との間に相互依存とも呼べる特殊な関係が生まれる。この第二の子宮とも呼べる期間に、子供は言語によるコミュニケーションを介して、共同体に共有される世界の分節化を学び始める。つまり、見たものに何と名前を付け認識するか、の道具として言語は存在し、またそれが言語を学ぶ本来の意味であるというのだ。

しかし、言葉は単に認識の道具となるだけではなく、共同体の価値観や行動様式といった規矩(きく)、すなわち、ものさしを伝えるものでもある。そして第二の子宮をはじめ、属する共同体に共有される規矩、つまり「ノモス」を共有できてはじめてヒトは共同体の中で人間として認められるというのだ。

また、このノモスは人為的欲望抑制装置としてとらえることもできる。例えばライオンはすでに満腹の状態なら新たに獲物を狙うことはないし、同種同士で意図的に殺し合うことも、繁殖期でもないのにやたらと交尾をすることもない。しかし、ヒトは食欲や殺戮欲、性欲といった欲望に対する先天的・自然的抑制機構が脆弱化しているため、共同体の規範を守ることを個々に要求されている。

ただし、個人は共同体のノモスを全面的に受け入れるわけではなく、個人史のなかには思春期、社会史のなかには宗教家や革命家など、新たなノモスの確立の元になるともいえる、変化と創造の基礎としてのカオス(無秩序)が存在することを説明した。そして、「芸術か猥褻か!」の言葉を例に出し、芸術は近代社会が生み出したカオスのエネルギーを吸収するための装置として存在しているのではないかと語り、講演を締めくくった。

 

今回は、人間の在り方という、前回よりも更に普遍的なテーマが扱われた。講演内容はやや難解であったものの、この講演で人間の新たな側面を知ることができたような気がする。次回はどんなテーマで講演がなされるのか、今から楽しみだ。今回行けなかったあなたも、次回は是非足を運んではいかがだろうか。