【連載】趣味の発表会 第一回:歴史学メジャー 〜現物の一次史料に触れる〜

 メジャーを決定したWG社員が、それぞれの専攻分野の魅力や、個人的な勉強の成果について綴る連載企画「趣味の発表会」。初回は、先日メジャーを決定したばかりの筆者(ID22)が、歴史学の魅力、とりわけ現物の一次史料に触れる楽しさについて語る。

1. はじめに

 歴史学とは、史料研究を通して自ら築いた歴史解釈を語る学問である。私たちが高校で学んだ「歴史」は、すなわち人物名や事件を暗記することを指したが、大学の歴史学はそれとは全くの別物だ。「問いを決め、史料を調べ、考え、書く」というプロセスで成り立つ歴史学は、主体性と独創性が求められる楽しい学問なのである。

 本記事では、歴史学の世界にようやく足を踏み入れつつある筆者が、歴史学を学ぶ上で最も重要な過程、つまり「一次史料」の講読と、その楽しさについて語る。ただ筆にまかせて書いても要領を得た記事にはならないであろうから、ここでは歴史学の手法に倣って一応の問いを立て、その問いの答えを探る形で考察を進める。具体的には、筆者が先日神田神保町の古書店で入手した二冊の古雑誌、『週刊朝日(1935年)九月第二増大号十五日号』と、『同(1944年)十月十五日号』を比較しつつ、1935年と1944年の間の9年間に日本社会がどう変化したかということを考えたい。無論、学術的な研究をするならば、より幅広い史料を用いて、多面的な調査を行うのが普通である。しかし、本記事はあくまで一次史料を読むことの楽しさを伝えることを目的としたエッセイであるため、上記の二冊のみを用いることとする。肩の力を抜いて読んでいただければ幸いだ。

2. 「一次史料」「二次史料」とは?

 歴史学では、研究に用いる資料を「史料」と呼ぶ。史料の種類としては、文献、伝承、絵画、写真、映像など、様々なものが挙げられる。また、それらの史料は大きく「一次史料」と「二次史料」に分けられる。前者は、研究対象となる時代に作られた史料を指し、後者は、後世の研究者等によって作られた史料を指す。例えば、もし幕末の歴史を研究するならば、当時の幕府文書や、志士たちの日記、手紙などが一次史料となり、後世の研究者の手による歴史書などが二次史料として扱われることとなる。研究をするからには、他の歴史学者の実績をなぞるだけでは意味がなく、独自の研究をしなければならないため、歴史学では一次史料の講読がより重要であるとされる。

 また、話は逸れるが、筆者が関心を持つ近現代日本史は、私たちが最も一次史料に触れやすい歴史分野であるということに触れておきたい。その理由は主に、(1)言語の壁がないこと、(2)入手が容易であることの二点である。

 往々にして、学部生が一次史料に触れる際に言語の壁にぶつかることがある。外国史を研究するのであれば、その国の言語に習熟している必要があるし、日本史であっても中世以前であれば、現代語との乖離の大きさから読解が難しいことがある。原文での読解が困難である場合には、翻訳や解説書に頼ることになるが、それでは触れることのできる史料の量が大幅に制限されるし、原語のニュアンス等を汲み取れないということもあるだろう。しかし、近現代日本史の史料であれば、旧字体の学習をするだけでほとんど問題なく読解が可能である。

 また、本記事では筆者なりに考えた、「現物の」一次史料に触れることの重要性についても述べるが、それらの入手が非常に容易であることも、近現代日本史の魅力の一つであると考える。後世の書籍等に活字で再録されたものであっても、テキスト自体が同じものであれば、それも一次史料として扱われる。しかし、筆者は現物を通してしか感じとることのできないことが必ずあると考える。中世以前の一次史料を学部生如きが手に取ることは難しいが、近現代のものであれば、神保町あたりの古書店へ行けば比較的安価で、当時の新聞や書籍等を入手することができる。本記事で扱う古雑誌二冊も、それぞれ数百円から千円ほどで購入したものである。このような点において、近現代の自国史を研究することには、技術的、経済的な面で有利性があると言える。

3. 戦前・戦争末期の『週刊朝日』の比較

 さて、前置きはこのくらいにして本題に入るとしよう。報道記事、小説、随筆等が掲載される雑誌は、発行当時の社会状況を知る上で重要な手がかりとなる一次史料である。『週刊朝日』は、1922年の創刊以来、現在まで途切れることなく発行されている週刊誌だ。流行の先端をいく週刊誌というだけあって、各号からは時代の空気を感じとることができる。1935年9月と、1944年10月の日本はどう違っていたのか。(a)雑誌の内容(b)掲載広告(c)装丁の三つの観点から、二冊の雑誌を比較検証し、考察を加えていく。

▲表紙 左’35年号(定価15銭)・右’44年号(定価13銭) 
▲裏表紙 左’35年号・右’44年号


(a)掲載記事

(一見して内容の分からない記事には筆者がカッコで説明を入れ、旧字体は新字体に改めた。)

1935年9月15日号1944年10月15日号
美術の秋の訪れ(展覧会の評論)昭和防人の歌(投稿短歌俳句)
府県会選挙物語戦ひぬくこの気魄 今ぞ国体護持の信念に生きよ
川島新陸相 ー如才ない性格ーあの声を聞け(コラム)
秋風に聴く(コラム)敵の謀略に乗るな わが優位性は不動
伊・エの風雲愈よ暗澹(第二次エチオピア戦争に関する報道)仰ぐ秀麗の人格 頭山満先生を語る
マルタ島(旅行記)戦争と学問
新版男心女心(読者投稿)志士について =家の伝統と学問の持つ力=
女優なれば ふぃらんとろぴすてぃんいや封建的感傷でサ(芸能人の生活に関する記事)決戦施策の実施 世論指導の根本要綱本極り
季節のプロローグ(ダンサーの写真特集)英国の暴状を衝く 印緬戦線で体験した原住民の根強い反英意識
秋の画廊(絵画の写真特集)限りある身の力ためさむ
東阿に漂ふ戦雲(第二次エチオピア戦争の写真特集)東北農民生活の詩味
「チヤルダス姫」「小連隊長」「新納鶴千代」(映画紹介)座談会「人」か「組織」か 科学技術戦力化への途
彼女は嫌と云ひました(映画紹介)日本科学は勝つ
続花嫁学校(連載小説)鎌倉大草紙(連載小説)
御神火渦巻心中 天国見物に出かけた四人の卍恋愛(小説)早降段勝継ぎ二重奏戦(将棋囲碁)
問題作をみる 新秋九月芝居短評
水上全日本学生選手権
秋の東京大学リーグ戦
桐の一葉と共に逝いた 床次竹二郎の生涯
将棋と囲碁の頁
怪盗鼠小僧(連載講談)
ケーキを斬る(コラム)

 掲載記事のタイトルを見れば、内容がどのようなものであるかのおおよその見当はつくだろう。’35年の号は「増大号」と銘打ってあるだけに、芸術関連の特集記事が充実している。1930年代は、日本が軍国主義の色彩を強めていった時期であったが、大衆文化は大正期に引き続いて隆盛を極めていた。

 ’44年の号は、戦前にはなかった「時局雑誌」という言葉が表紙に印刷されているように、戦争に関連した記事がその大半を占めている。戦前に多く掲載されていた映画紹介や、スポーツ記事は姿を消している。裏表紙には、「慰問袋に忘れず本誌を」と書かれてあるように、前線の兵士が読むことをも想定した、戦意高揚を狙った内容の記事やエッセイが多く掲載されている。

 参考として、’44年号の巻頭に掲載されたエッセイ『戦ひ抜くこの気魄 今ぞ国体護持の信念に生きよ』の冒頭の段落をここに引用する。

 現在の我々は戦って戦って戦ひ抜く以外に、如何なる方法も手法も残されてゐないといふことをますます認識すべきである。なるほど、ガダルカナル島からの転進、アッツ、ギルバート、マーシャルの全員戦死に次いでサイパンの失陥、テニヤン、大宮島(注:現在のグアム)の壮烈なる最期など数へて来ると戦局の前途に暗影を想ひ、戦ふことに対する希望を弱めて来る傾向がないでもない。けれどもそれはいはば贅沢な戦争観であり、全員戦死し去った将兵の志を顧みないものといはねばならぬ。北海と南溟とに水漬く屍となった将兵と同胞とは、太平洋の防波堤たらんことを期し、後につづくものあると信じて、皇国の必勝を念じつつその日夜を分たぬ戦ひに突入して行ったのであった。我等こそ最も頼み甲斐ある後続者たらねばならぬ。

 当時の戦争に協力的なメディアの論調を端的に表す文である。ちなみに、これを執筆した東京文理大(のちの東京教育大、筑波大)教授の肥後和男なる人物について記されたウィキペディアの記事によると、彼は戦後一度は公職を追放されたが、連合国軍の占領統治が終わった’52年には再び東京教育大の教授職に返り咲き、’63年の定年退官後、名誉教授となったとのことである。

 両者の内容を比較してみると、戦争が進行するにつれて娯楽が奪われ、国家総動員体制が強められていったことが読み取れる。

▲’35年号 第二次エチオピア戦争の写真特集

(b)掲載広告

1935年9月15日号1944年10月15日号
小柳式理想健康帯(健康器具)エスチモン(薬)
二科画集仁丹(薬)
湯之島館(温泉旅館)新生アイフ(薬)
週刊朝日秋季特別号「腹圧と健康」(書籍)
森永ミルクチョコレートボレックスカメラ
平松食用茸栽培所アカネ歯磨(歯磨き粉)
「事実小説第四回募集」(小説コンテストの応募受付)ネッサル(薬)
コロムビアポータブル(レコードプレイヤー)ユゼ洗粉(洗剤)
錠剤わかもと(薬)明色ヒフ薬(薬)
大阪朝日新聞縮刷版明色酵母カルシウム錠(薬)
日本電話建物株式会社(住宅)帝国生命(貯蓄)
クロネコ・ズロース(下着)クラブ歯磨(歯磨き粉)
阪和電鉄(ツアー旅行・不動産)旭精機製作所(軍需工場)
ビタオール煉ポマード(整髪料)野戦軍楽隊(映画)
定額郵便貯金
救心(薬)
カラニウム(薬)

 次に掲載広告の内容について考察する。’35年号では、怪しげな健康器具から、きのこ、下着、住宅まで多彩な広告が掲載されていたことがわかる。また、現代のネットニュースなどと同じで、普通の記事に見せかけた広告記事もいくつか掲載されている。

 一方で、’44年号は、ページ数は少ないものの広告の掲載数は’35年号と比べてむしろ多いということがわかる。しかし、生活必需品関連以外の産業が停滞していたためか、17ある広告のうち半分以上を薬品の類が占めるなど、内容に偏りが見られる。また、「家族に職場に前線に(仁丹)」「一億の燃ゆる闘志を貯蓄に示さう(定額郵便貯金)」など、キャッチフレーズは戦意の高揚を狙うようなものが多い。ここでも戦前から戦中にかけての、戦争の進行に対応した社会情勢の変化が見て取れる。

▲’35年号巻頭の怪しげな広告

  

(c)装丁

 今回あえて、「〈現物の〉一次史料を触れる」というタイトルにしたのは、史料の装丁から読み取れることがあるのに気付いたからだった。二つの雑誌を見比べれば、装丁の質の差は一目瞭然である。’35年号の方は、表紙は多色刷りになっており、サイズも’44年号に比べると二回りほど大きい。印刷の質は申し分なく、刊行から80年以上が経った今でも、通読に支障はない。一方で、’44年号の表紙は赤と黒の二色刷りで、紙の質が恐ろしく悪い。印刷に用いるインクもケチったとみえて、活字はかすれている。

 しかし、何にも増して筆者の心を揺さぶったのはもっと些細な違いだった。この頃の雑誌も今と同じで、紙を重ねて中央で折り、折り目をホッチキスで綴じることで製本されている。紙が簡単に外れないように、普通は上下二箇所を留めるもので、’35年号はそうなっているのだが、’44年号は中央の一箇所にしかホッチキスが留められていないのである。物不足の中で、たった一個の針さえも節約せざるを得なかったためだろう。ちなみに、弊誌もいつも資金難に喘いでいるが、紙版を製本する際にホッチキスの針をケチって一個にしたということは、流石に未だかつてない。戦争末期の日本がいかに疲弊していたかを、雑誌の装丁が物語っているのである。これでは、いくら「我が優位性は不動」などと戦意高揚の努力をしたところで、国民を鼓舞することはできないだろう。ホッチキスの針一個をケチる国が、全国民が自動車を乗り回しているアメリカ合衆国を相手に無謀な戦争をやっていた。それがどういうことであったかを、当時の出版物の現物に実際に触れて、感じることができる。

▲’44年号。印刷が若干かすれている


4. おわりに

 国際社会から孤立し、軍国主義的色彩が強まっていた1935年から、帝国が崩壊へ向かう1944年までの日本はどう変わったのか。’35年の号からは、隆盛を極める大衆文化の一端を垣間見ることができた。’44年の号からは、穏やかな日常が破壊され、総力戦への全面協力が日常そのものとなった帝国末期の日本の様を見て取ることができた。

 こういったことは、学校の歴史でも口をすっぱくして教えられることである。しかし、いくら「情報統制がなされた」とか「物不足だった」などと言われても、現代の学生にはピンとこないのではないだろうか。現物の一次史料に触れることで、授業で教えられた当時の人々の生活や、社会の雰囲気が手に取るように分かるようになる。歴史が好きな読者の皆さんにも、パンデミックが収束したときには、神保町の古書店へ足を運んで、棚に無造作に積まれた古雑誌を手にとっていただきたい。必ずや、何か楽しい学びが得られるはずである。

【RN】