さようなら第二男子寮
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2015年7月1日、ICUからまた1つ、学生寮が姿を消した。過激なバカ山発表会や、入学式での一発芸、「仁義」などの伝統で知られる第二男子寮だ。閉寮の話は90年代からあったが、OBをも巻き込んだ閉寮反対運動とともにこの日まで生き永らえてきた。しかし今、第二男子寮手前の通路には多くの荷物が投げ出され、解体の日が近いことを物語る。
本稿では、在りし日の第二男子寮の姿や閉寮の経緯を、少しばかり振り返ってみたい。
「恵まれた」住環境
1956年、第二男子寮は第二女子寮とほぼ同時期に、関西学院大学や神戸旧居留地38番館を手がけたことで著名な建築家W・M・ヴォーリズの設計によって建設された。当初はひと部屋に4人が定員で、今からは想像もつかないほど手狭であったという。個人の荷物を置くスペースは学習机と押入れの大型トランクひとつ分程度が精一杯で、毎月の寮会では60人以上の寮生がソーシャル・ルームに詰めかけた。しかし、当時の寮誌「シリウス」には、我々の想像とは対極的に、寮の「充実した設備」に感謝する言葉が並ぶ。水洗便所や洗面所、そして大浴場を完備し、温水式の暖房設備を完備した第二男子寮は、50年台当時にしてみれば「学生には贅沢すぎる」ほど恵まれた住環境だったのだ。
朝鮮戦争が終結し、ようやく日本の復興が軌道に乗ったさなか、おそらくは戦争を体験していたであろう学生たちは何を思い、何を学んだことだろう。「シリウス」を紐解くと、寮生の思い出話のみならず、当時懸案になっていた沖縄の本土復帰についての真摯な論考や、さらには英語で記された論文まで掲載されていた。思えば現在に至るまで、第二男子寮の寮会は通訳者を立て、バイリンガルで行うことが義務づけられていた。第二男子寮もやはりICUだったのだな、と改めて実感する。
半世紀続いたバンカラの伝統
開寮からまもなく、日本は安保闘争の時代を迎える。第二男子寮も例外ではなく、次第に「赤化」していった。ICUは、キャンパスがひとつの家となり、寮生と教授が全人的な交流を深め合う「教育寮」の理想を掲げて学生寮と教員住宅を学内に置いたが、時代の嵐は理想を吹き飛ばした。教員と寮生の関係は次第に険悪になってゆき、第二男子寮の一室に住んでいた教授は寮を去った。読書会などの交流行事も行われなくなった。
ICUが安保闘争に対して寛容でなかったことはよく知られている。ディフェンドルファー記念館(旧D館)には学生たちがバリケードを築き、授業は中止に追い込まれた。大学当局は他大に先駆けて機動隊を導入し、学生運動に参加ないしは連帯したものは、教授から警備員に至るまで徹底的に追放された。そんな中、第二男子寮にはある逸話が残されている。他校の学生運動家が警察に追われ、とりあえず森の多いICUに逃げ込み、第二男子寮に辿り着いた。一晩泊めてほしいとの申し出に、大統領(寮長)と大臣(役員)たちは喧々諤々の激論の末、特例として宿を貸すことにしたという。そのためか、最近まで第二男子寮には革マル派のヘルメットが残されていた、と複数のOBが証言している。ある者は3つあったと言い、別の者は1つしかなかったと言うから、年が経つにつれて紛失していったのだろう。飲酒する際の盃にするなど、有効に活用されていたそうだ。
70年台に入ると、女子寮との”交流”が盛んになった。それは「ストーム」と呼ばれていたが、現在の意味とは大きく異なる。今「ストーム」といえば、ボールパーティーなどの開催に先立って、他寮にお邪魔して一発芸を演じ、場を盛り上げて入場券を買ってもらうイベントを言う。一方当時の「ストーム」は、なんと女子寮に忍び込み、居室や浴場に”ありとあらゆる”イタズラを仕掛けることであった。もちろんこうした余興を許容してくれる寮生ばかりではなかったため、女子寮生によって現行犯逮捕された場合はそれなりの代償を払う必要があったという。また、女子寮から男子寮へのストームもあったというから驚くばかりだ。とあるOBの手記には、「ストームを仕掛けに来た女子寮生を捕獲したはいいが、どうにもこうにも始末に困った」と述懐されている。
閉寮への道
1990年の終わり頃から、50年代に建設された第一、第二男子寮・女子寮の閉寮が再三にわたって通告されるようになる。その都度、当時の寮生たちは寮のつながりを超えて連帯し、学校側と多くの交渉を重ねて延長を勝ち取ってきた。しかし、2009年には第一男子寮・女子寮が閉鎖され、跡地に新寮が建設される。木造建築ゆえの限界ではあったが、今も新寮の玄関に遺される看板を見るにつけ、何とも言いがたい哀愁の念に駆られる。これを受けて、第二男子寮の閉寮反対運動も転機を余儀なくされた。懐かしい第二男子寮を残していきたいという思いは誰しも持っていたが、建築物としての耐用年限という限界は確実に存在する。ゆえに、必要なのは閉寮を先延ばしすることではなく、むしろ交渉が可能なうちに第二男子寮の文化が遺される形で「建て替え」に持ち込み、換骨奪胎を図ることだ、という考えがコンセンサスを得ていった。第二男子寮出身のOBや現役寮生の多くが学校側との交渉のテーブルに座り、寮に文化や伝統、濃密な共同体が存在することの意義を繰り返し訴えた。
6月中旬に学生食堂で行われた閉寮記念式典には、多くのOBや学校関係者、そして現役寮生が出席した。驚くべきことに北城恪太郎理事長も出席され、「ICUは、学生の教育に尽力するあまり、毎年10億円の赤字を出しているほどだ。もし第二男子寮の関係者からご寄附をいただけるなら、新しく建設される寮に(第二男子寮の象徴である)“シリウス“と命名されたフロアを作ることも検討されるだろう」と寄附を呼びかけ、会場は万雷の拍手に包まれた。
また、第二男子寮を中心に組織された「ICU Prom実行委員会」によって、「ICU Prom」*1というイベントが開催されたことも見逃せない。アメリカの高校では一般的だというこのイベントは、男女がディナーを共にしながら、ロマンチックな時間と踊りを楽しむ、というものだ。「もう最後なんです、お願いします!」食堂や学生サービス部に、足繁く交渉に通った。寮費も10万円投資したという。実行委員長の成冨美唄氏(ID18,Sep)は、「最後に第二男子寮の力で出新しいイベントを打ち立てることで、『あのプロムって、第二男子寮が始めたらしいぜ』と語り継がれるようにしたかった。寮の名を残したかった。」と語った。プロムは、来年も開催される予定だ。
第二男子寮はもう戻らない
6月30日の深夜、第二男子寮では現役寮生だけが参加する最後の飲み会が開かれた。下級生から順番に、一人ひとりが寮への熱い思いを語った。残された寮費を使って購入した3ケースものヱビスビールはたちまち底をついた。最後の大統領は、「3ヶ月しか居られないにも関わらず入寮してくれた1年生には、とにかく感謝している」との言葉で挨拶を締めくくり、沈鬱な雰囲気になったかと思いきや、まもなく上を下への大騒ぎが始まった。ある者は風呂から汲んできた熱湯をあたり構わず掛けて周り、ある者はソーシャル・ルームのソファに腰掛けながらギターを弾き、またある者は徹夜でICUの未来について語らい合った。こうして思い思いの夜を過ごした後、寮生たちは一人、また一人と荷物を携えて寮を後にしていった。
かくいう小生も、無論第二男子寮生の一員であった。入学式の時、直前に「一発芸をやれ」と命令され、咄嗟に「シュワッチ!!」と叫びながら点呼に応えた瞬間が昨日のことのように思い出される。良くも悪くも人間的な交流から逃げることはできなかったため、思えば星の数ほどの失態をやらかした。苦くて酸っぱい思い出ばかりだ。だが、昨日の夕飯も思い出せないような小生にさえも忘却を許さないような強烈な思い出は、やはりここでしか得ることができなかっただろう。今は当時と比べて「自由」な身になったが、手に入るのはどこにでもあるような、ありふれた楽しみばかりだ。
ICUはどちらかと言えばお利口さんの、お嬢様学校のようなイメージが定着し、実際のところ平穏かつ道徳的で、誰にでも受け入れられるような価値に敷き詰められているように思う。その中で、まるで子供のように非理性的かつ幼稚な文化を持ち、いたるところで学生をアッと言わせてきた第二男子寮は、ちょうどアテナイ市民にとってのソクラテスのように貴重かつ必要な存在だったのではないかと思えてならないのだ。第二男子寮亡き後、誰が学生たちに人間性を思い出させてくれるというのだろう?
*1
一部報道では「ほとんどの学生が参加した」とされているが、実際のICU Promには100人程度の学生が参加した。全学の3%程度に相当する。