ICUの歴史を「再考」するプロジェクトが開始

1960年代、日本の様々な大学において学生運動が盛んになった。ICUも例外ではなく、当時の学生によって集会やデモ、授業ボイコット、校舎占拠等が行われた。1968年2日27日、主導する学生による「全学共闘会議」(以下全共闘)が結成され、ガードマン体制の即時撤廃、教授会議事録の全面公開、能研(これについては今後下記ウェブサイトを参照のこと)処分白紙撤回の3つの事項を大学側に要求した。これら一連の要求運動は総称して三項目闘争と呼ばれている。

こういった言葉はICUの大学紛争に関心のある人の耳には馴染んでいる反面、その内実が語られる機会は少ないように思われる。今回は、「ICU史再考プロジェクト」の共同発起人の一人である村田広平さんにお話を伺い、筆者が再構成した。
※「ICU史再考プロジェクト」のサイトはこちら:https://reconsidering-icu-history.jimdo.com/

 

ICUの大学紛争時代の検証を行いたい

大学紛争は、今から50年前が非常に活発でしたが、ICUには創立以来様々な学生運動がありました。その中で一番の大きな事件は主導する学生によって「全共闘」が結成されたことから始まり、そこには当時かなりの数のICU生が参加していました。しかし、大学紛争が終わってから大学だけでなく学生側もこの時代の「総括」、つまり再評価や反省をしていません。今その時のことを振り返るにあたって、当事者だけで解決しようとしても、それぞれの捉え方に沿う、食い違った主張がされることが考えられます。

そこで、第三者の視点からそれをまとめた上できちんとした歴史として記録され、語り継がれることが必要だと思われます。大学紛争に関する事柄についてはICUの大学史の中では公式に触れられていないので、自分たちで調べる必要があると感じました。

※ICUのホームページで紹介されている大学の沿革はこちら:http://subsites.icu.ac.jp/anniv60/history/

 

客観的な立場から解明していく

大学紛争の時期に触れることは非常にデリケートな取り組みであると考えています。一歩間違えると、単純に大学を糾弾しているだけになってしまうからです。また、「大学の在り方に対して根本的な問いを提起した」という評価もされる、この時の学生運動に参加した当時の学生の言い分が全面的に正しかったかというと、一概にそうだとも言えません。当時の状況の中で、例えば教授会議事録の全面公開が現実的な要求だったのかということや、ICU独自の運動を模索する動きもあったにしろ、当時の社会状況をみるとICU外の団体との関連という側面も考えなければならないからです。まず、インターネット検索で見つけたブログに転載されていた週刊アンポ(べ平連―「ベトナムに平和を!市民連合」の略―発行)のNo.4(1969年12月29日号)の紙面に載った1969年6月9日と記載のある、本館前の写真をご紹介したいと思います。

▲本館前の様子 『週刊アンポ』より

もう一つご紹介したいのは、サークル協議会発行の「ドキュメント3項目闘争」に掲載されている1969年10月25日に完成し翌年4月まで設置されていたという、工事現場などで見られる高さ3mほどの金属塀の配置図です。これは大学側によって活動家の学生が授業妨害をしないようにという名目で建てられたもので、除籍処分などを受けていない、登録に応じた学生は大学側が発行した証明書を検問所で見せることで金属塀の内側に入ることが出来ました。校舎や(旧)D館だけでなく、チャペルまでが囲われました。この金属塀の内側で授業をすることを拒否した教員や、この頃に大学を去ったり大学から休職命令が出されたりした教員もいます。大事なのは、それらがどういう過程で起こり、なぜこのような結果を招いてしまったのか検証することだと感じています。様々な資料を基にして、客観的な立場から何が起きたのかを明らかにしていきたいと考えています。

「ICU史再考プロジェクト」のサイトでは、ICUに関するものも含む、当時の大学紛争に関連する新聞記事も掲載しています。(そして今後は、国際基督教大学学生新聞の1967年1月12日付号外も見ていきます)

▲ICUに張り巡らされた金属塀 『ドキュメント三項目闘争』より

 

同窓会の方に情報提供を呼び掛けている

ICUの同窓会掲示板で2015年4月19日にこのプロジェクトについてお伝えして、当時の資料を持っている方がいたら見せてもらえるようにお願いしていました。2年近く経った去年初め、12期(ID68)の方からコンタクトを頂き貴重な証言や資料を見せていただきました。12期の方は1964年にICUに入学したので、大学紛争が激しくなっていった1966年、67年頃3年生から4年生としてICUで過ごしたのですね。大学紛争が後に残したものについてとても心配していただき、当時の状況についていろいろとお話ししてくださいました。多くの資料は17期(ID73)の私の美術部時代の先輩から提供されたものですが、元教員の方々を含むたくさんの方達に教えて頂いた資料も含まれています。また卒論やレポートでICUの大学紛争を取り上げたものもあります。これは執筆者とも連絡が取れ、内容を確認できました。また、1991年のイヤーブックにもこの問題が取り上げられています。

1952年に語学研修所としてスタートしたICUが、翌1953年4月に国際基督教大学教養学部として開学しました。40年後に、ICU同窓会編集・発行した『卒業生のICU40年』(1992年2月発行)では、記事、座談会、年表などによって学生運動の歴史も辿る事ができます。

50周年に向けては、長年ICUで教鞭を執られ、1966から69年にかけて教養学部長として今のICU体制を形作ってこられた教授によるICU史に関する著作が大学から2000年に出版されました。しかし、その本に大学紛争の記述は詳細な巻末年表にはあるものの、例えば上述の塀については「10.25 キャンパス内の教育区域を取り囲む鉄板の塀を構築。授業再開(10.27)」と記載されていますが、この塀が4月まで5か月以上も設置され続けたことなどは記述からはわかりません。私たちは、紛争に関してこの本に書かれなかった重要なことも数多く聞いています。

 

ICU史に空いた穴を埋める

2013年からの献学60周年記念事業の報告書としての年表が大学ホームページの卒業生向けのところにあります(前述のICUのホームページ)。そこで「紛争期」なる言葉は、前述の教授の著作の区切りを踏襲して一定の期間を表す名称として記載されているものの、その内容を見てみると一切大学紛争を示す記述はありません。学生の本館占拠時の写真は、多くの写真の中に1枚だけありました(2018年4月11日時点)。大学紛争の実態に全く触れないことも大学史記述のひとつの在り方かもしれませんが、私たちの「ICU史再考プロジェクト」がそれを補なうという意味は大きいと思います。

8期の方が中心になる形で昨年秋発足し、会合が持たれた「ICUを考える会」のことを教わりました。議事録を見せて頂きましたが、建学時の理念が現在のICUでおろそかになっていないかということを、様々な期、様々な立場の方が憂慮していました。現在、複数の現・元教職員の方々も、ICU史で見過ごされてきた事実の発掘や記録としての保存に取り組んでいらっしゃいますが、互いに連繋をしていくという姿勢はまだあまり見られないように思います。

去る3月24日の同窓会懇親会場で、日比谷学長、森本副学長や、紛争期を知る方々に当プロジェクトのチラシをお渡ししました。今回4年2期を務め退任された同窓会の木越会長も退任のスピーチの中で大学紛争に言及されました。当時の様々な学生の立場、大学当局、教職員、関係者の視点なども交えて、この時期の学内での対立の影響がその後現在にまで及んでいる影響について考察しようと思います。そして大学紛争によって分断された人々、私たち、そしてこれからのICU生やこの問題に関心を寄せる人たちの間の対話のおぜん立てをしたいと思っています。

 

今のICUの学生に考えてみてほしい

昔のことは今に繋がってきます。興味を持って調べてみれば、知らなかったことがいろいろあります。例えば、ばか山のあたりに梅の木が植えてあるのは、学生が集会やデモをあの場でやりづらくするという狙いがあったそうです。これは冗談のように聞こえるかもしれませんが、当時の大学側の事情を知る方から伺ったことです。今のICUの学生にはこれから、母校の歴史、ひいては歴史そのものを、自分たちがどのような時の歩みの中で生まれ、今どのような状況のもとにあるかという問題として、考えていただきたいと願っています。

村田広平
1982年ICU教養学部教育学科を卒業。2年の休学(学外での遍歴)を経たため2年遅れの卒業だが同期(24期 ID80)の根本敬氏と共に「ICU史再考プロジェクト」を立ち上げる。

根本敬
1980年ICU教養学部社会科学科を卒業。上智大学教授。ICUでも1990年以来東南アジア史を教えている。

参考文献
『卒業生のICU40年』 国際基督教大学同窓会編・発行 1992年2月10日
『同窓会ティーチイン報告書1967年6月24日~25日』 国際基督教大学同窓会
『ドキュメント三項目闘争』 サークル協議会 1972年11月