〈野糞(NOGUSO)体験記〉
[ネタ記事]

※この記事はネタ記事です。一部フィクションを含むかもしれないし、含まないかもしれません。

 告白しよう。筆者はこれまで3度、ICUの森で野糞(NOGUSO)をしたことがある。

 此処に記すは、その所感である。読者の腸内生活の一助となれば嬉しい。

 それはいずれも、深夜2時、3時台であった。夜の散歩が日課の筆者は、皆が寝静まった頃にICUの森を徘徊するのが好きだ。しかし、そこで突然、便意は襲ってきた。まるでベートーヴェン交響曲第5番「運命」第一楽章の始まりのごとく、それは筆者の腹を激しく突き上げた。

 もはや一刻の猶予もない。しかし、学内の施設は全て閉まり、寮生でもない筆者は寮の中にも入れない。残す選択肢は滑走路を出て右のセブンイレブンのトイレだけである。しかし、便意は米国第7艦隊の如き勢力で襲って来ている。セブンまでは到底、辿り着けそうにない。その時、筆者の体は自然とICUの森の中へと吸い寄せられたのであった。便意を超えた自然の導きのようなものが、筆者を滑走路(マクリーン通り)脇の森へと誘った。

 もはや如何なる羞恥心もない。寂寞たる夜、ICUの森の中で、一人静かに、ズボンを下ろした。まだ、寒さの残る3月、筆者の下半身に風は鋭く刺さってくる。筆者はおもむろに、大地から頂いたものを、ゆっくり大地へと帰していった。

 その時、果てしない夜の静けさの中で、一つのメロディーが生まれた。

あたかもシューベルト「未完成」の第一楽章のごとく、筆者の肛門は静かに音を奏で始めた。初めは、静かに、穏やかに、次第に力強く、しっかりと、排便はクレッシェンドしてゆく。

 

「b bu bu buri buri buri buri bu bu buri Bushu 

 Buri BB BU Buri BURIBURIBRIBRIBURIBURI」

 

 その音は、深い深い夜の律動そのものであった。

 その瞬間、木の上に止まっていた数百羽のカラスが漆黒の空へと一斉に飛び立った。上昇する鳥たち、下降する糞便。一斉に飛び立つカラスの中で、その行為は神聖さすら帯びていた。鳥たちの祝福の中で、野糞は今、このICUの大地に「降臨」した。

 それは同時に、森の中で、人間がその本来の「自然」へと帰っていった瞬間でもあった。自然から頂いたものを自然へと帰す。それは単なる排便行為ではなかった。私を生かす生命が、その故郷である土へと帰る営み、野糞とは生命の「帰郷」であった。

 全てのものは自然へと帰るのである。筆者の垂れた野糞は、森の肥料となり、大地の潤いとなり、その土からは色とりどりの草花が芽吹き、その中で多種多様な昆虫が戯れ、引きつけられるように小鳥たちが集まり、やがて彼らは成長して立派な親鳥となり、巣を作り、新たな命が誕生する。

 そう、全ては繋がっているのだ。筆者の野糞も、この地球の生命の流れの一部なのだ。今、あなたが食べている食物の一つ一つにも、筆者の野糞は働いているのである。筆者はそれを思う時、自然への果てしない畏敬の念を感じずにはいられない。

 昨年、本館にオールジェンダートイレができた。しかし、我々は見落としていないだろうか?我々を包み込んでいるICUの自然それ自体が、天然のオールジェンダートイレであることを。自然は何物をも包み込む。自然は区別しない。男も女も関係なく、自然はその懐に我々を抱きとめる。

 いくらオールジェンダートイレを作ったところで、夜に閉まっているのでは意味がない。固く閉ざされた本館。絶望した私を自然は優しく抱き止めてくれた。

 読者諸君は野糞(NOGUSO)と聞いて抵抗を覚えるかもしれない。しかし、案ずることはない。自然の一部である人間が、その流れの一部となることに何故抵抗を覚える必要があろうか。むしろ、大層なトイレを拵えて、人間を自然から「疎外」することの方に、筆者は抵抗を感じる。

 勿論、そうは言っても、トイレが空いている時は、そこを使うのである。しかし、もし、残された選択肢が野糞しかない状況が生じたら……垂れるがいい、自然は拒まない。垂れなさい、垂れるのです。垂れ続けなさい。あなたの便意が治るまで。ただ、ひたすらに垂れなさい……。

【ひし美ゆり子】

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