[紙版掲載記事]
ニュータウン化する学生寮

 

※この記事は学内向け紙版新聞「The Weekly GIANTS No.1255 (2021年9月30日発行)」に掲載された記事を一部加筆修正して掲載したものです。

1番新しい「新々寮」の「樅・楓寮」

 この10年余り、ICUのキャンパスは空前の建設ラッシュを迎えている。とりわけ、矢継ぎ早に行われた学生寮の新築は特筆に値する。第二男子寮が取り壊された跡地には、都会のマンションのような美しい新々寮が建てられた。

 その様子は、70年代以降日本中で起こったニュータウン化の波を思い起こさせる。似ているのは、環境が激変する様子や、何の歴史的意味も持たない馬鹿げた新名称だけではない(「桜ヶ丘」とか「つつじヶ丘」というニュータウンの地名と、「樅」や「楓」という学生寮の名前はどこか似ていないだろうか)。学生寮の建て替えは、ニュータウン化によって生じた社会的問題とよく似た問題を、学生寮のコミュニティに生じさせているのだ。

  

ニュータウンとは

 都市郊外に整備された大規模住宅をニュータウンと呼ぶ。80年代にピークを迎えるニュータウン化は、50年代以降の団地化に続く、日本の郊外化の第二段階に当たる。東京でも多摩ニュータウンなどが整備された。

 社会学者の宮台真司は、ニュータウン化がもたらした社会状況の変化を「家族の空洞化x市場化&行政化」と要約し、その状況を「コンビニ化」とも言い換えている。ニュータウンの住民は、たまたま同じ場所に引っ越してきただけの人々の集合体であり、そこには旧来の社会にあった共同体意識がない。地域の自治能力がないため、問題が起こると行政が介入する。本来共同体が担っていた役割を行政や市場の「システム」が代替することにより、共同体はますます空洞化する。

 「家族の空洞化」を「学生コミュニティの空洞化」と読み替えれば、新造された学生寮でもある種の似た傾向が生じているように思われる。もちろん、学生寮は一応学生自治を旨としているから、ニュータウンほどひどい状況にはない。

 しかし、寮独自の文化は年々薄まっている。1年余りを新々寮で過ごした筆者の実体験も交えつつ、そのことを説明したい。

 

自治の弱体化と大学側の支配強化 

 旧寮と新寮・新々寮(総称して「新しい寮」とする)を比較して気付くのは、新しい寮では学生の自治が弱くなり、大学側のコントロールする領域が多くなっていることだ。

 まず思い当たるのは、寮外生の立ち入りに関する規則を、旧寮では学生ら自身で決めているのに対し、新しい寮ではそうではないということだ。とりわけ、新寮では、寮生以外の人は原則一歩も立ち入れないことになっている。

 新々寮では、各フロアごとにある程度の裁量が認められているが、夜間の共有スペースへの立ち入りが制限されるなど、制約を受ける場面がある。後述するように、この規制には安全性の面から一定のメリットがあるのは事実だろう。しかし、旧寮ではその部分のルーズさに起因する問題も寮内で処理するだけの自治が許されているのに対し、新しい寮ではそれがないということに注目したい。

 また、もしかするとそれ以上に重要なのは、新しい寮においては、入寮希望者の中から誰を入寮させるかを寮生自ら選ぶ権限がないことだ。旧寮においては、寮のコミュニティに馴染む人物かどうかなどを考慮し、寮生自らで新入寮生を選ぶ。排他的なようにも見えるかもしれないが、それが共同体の文化の維持にはつながる。反対に、新しい寮では、大学側が新入寮生を選ぶから、彼らが同じ寮にいるのは単なる偶然に過ぎないわけだ。後述するが、これは寮が独自の文化を育む妨げになっていると考えられる。

 他にも、自治の制限をあげればキリがない。筆者が在寮していた時には、リビングに寮生の誰かがおいていたハンモックを撤去するよう管理人に命令されたことがあった。角が壁に当たると傷がつくという理由だったが、新々寮では家具ひとつ置くにも管理人の許可が必要なのだ。

 他にも、地味だが重要なのは新しい寮においては、台所を除く共有部分の清掃が業者に委託されている点だ。旧寮では、寮生の労働大臣が各自に役割を分担し、寮生自ら清掃を行なっている(少なくとも建前ではそうなっていると聞いた)。これは、本来共同体が担うはずの役割が、新しい寮においては「市場化」されている例だろう。

 このように、新しい寮ではハウジング・オフィスというある種の行政権力が介入する領域がどんどん拡大している。

 そして、大学側が管理を強化する志向を持っていることは、コロナ禍でより明らかになった。寮内で感染者が発生した事実を、大学側が積極的に公開しなかったことは、本誌の取材でも明らかになった*。プライバシー保護が目的だというが、これは大学側が寮生を信用のならない管理の対象と捉えていることの表れだ。

 こうしたことは、本来学生たちが熟議の上で対応を決めるべきだろう。その機会が奪われているのが、現在の学生寮なのだ。

 

失われた旧寮の文化

 ニュータウンは、その地域の文化を一掃するものだ。東京においても、多摩丘陵の里山の文化は、多摩ニュータウンの建設とともに完全に失われた。

 学生寮も同様だ。第二男子寮の文化は、建物とともに失われた。旧寮ならではの濃密なコミュニティも、「大統領制」も失われた。跡地には、まっさらの新々寮が立つ。

 ニュータウン同様、新しい寮には良くも悪くも共同体的文化がない。そこでは、各人が比較的個人主義的に振る舞っている。寮の人間関係への参加は任意であり、それゆえコミュニティに包摂されずに、部屋に閉じこもるようにして孤立する者も出てくる。言い換えれば、新しい寮のコミュニティでは、寮生相互の結びつきが希薄化しており、皆が「距離感をわきまえた」付き合いしかしなくなっている感じを受ける。

 筆者が在寮していた頃も、寮内では周囲との繋がりをほとんど持たない者が何人もいた。留学生に至っては、多くがとりあえず住んでいるだけという感じで、大学が押しだす「グローバルな学生寮」イメージとは程遠い状況だった。いわゆる「引きこもり問題」は、ニュータウン化と密接に関係していると言われるが、寮においても似た現象が起きている。

 独自の文化が欠如した場では、共同体意識は生まれにくい。新しい寮で、今後独自の共同体的文化が生まれるかは未知数だ。新入寮生を寮生自ら選べない状況はプラスにはならないだろう。もし、「ハリー・ポッター」の組分けが、組み分け帽子によって行われるのでなく、単なるくじ引きだったら、グリフィンドールの文化もクソもない。学生寮のようなところで新しい共同体を築くには、いま自分がここにいるのは単なる偶然ではないという感覚が必要なのではないだろうか。

 また、すでにコミュニティが空洞化した郊外住宅で育った現代っ子の大学生たちが共同生活を送る中で、新たにそのような文化が生まれるかどうかもわからない。もしかすると、旧寮的な文化は昭和の時代から受け継がれてきたものだからこそ、今でも存在し得るものなのかもしれない。

 

じゃあ、どうする?

 もっとも、ここまで筆者が書き連ねた問題など、瑣末なものだと感じる者もいるだろう。確かに、新しい寮は「安心・安全・便利・快適」という意味では、旧寮よりも断然優れている。それを承知の上で、「ニュータウン化」問題に対する提言を行い、本稿を締めくくりたい。

 第一に、すでに無くしてしまったものは仕方がないが、これ以上旧寮を取り潰すのはやめるべきだ。今残る旧寮は、かつての古き良きICUの学生寮文化を現代に伝える最後の砦になっている。この寮は安全でも快適でもない(最近やっとエアコンがついたと聞いた)が、OBとの繋がりを含めた共同体的文化を持っている。それは、新しい寮にとってのベンチマークになりうるものであり、残す意義は大きい。

 第二に、大学は新しい寮に対しても旧寮並の自治を認めるべきだ。現在の大学側の姿勢には、寮生のために問題をできるだけ取り除いてやろうとする父兄主義的な態度が見え隠れする。しかし、自治の文化は問題を乗り越えてこそ育まれるものだ。それでこそ、共同体は育つ。大学側は、もう少し学生を信頼することから始めるべきだ。

【RN】

*​​​​​​http://weeklygiants.co/?p=9668

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