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【特集:C-Week】Cコード擁護論――ICUの常勤教員は全員クリスチャン!?

 

夜のICUチャペル
夜のICUチャペル

ICUにはCコードというものがある。常勤の教員(教授、准教授、常勤講師)は信仰を持つキリスト者でなければならないという規則だ。例えば、ICUのWebサイトに掲載されている常勤教員募集の要項にも「キリスト者であること(教派は問わない)」という条件が含まれている。(国際基督教大学教員募集 https://goo.gl/cZhgmc

この原則は21世紀の日本において確かに極端かもしれない。ICUも加盟しているキリスト教学校教育同盟の調査によると、理事長や学長にこのような原則を適用する大学はある程度あるようだが、教員にまで適用する例は珍しい。この同盟に加盟している大学のうち、回答のあった55校の教員の内のキリスト者の割合は29.8%とのことだ。(『キリスト教学校教育』2003年3月号 http://www.k-doumei.or.jp/np/2003_03/)その中で100%を維持しているICUは異色だといえるだろう。

当然、時代にそぐわないのではないかという批判は学生の間でも聞かれる。献学当時の牧歌的なキリスト教主義が通用する時代ではないのだ、他の大学と競争しなければいけない時代なのだ、という主張もあるだろう。しかし、この記事ではあえてCコードに賛成の立場から、過去になされた議論を整理し、あらためて問題提起をしたい。

『国際基督教大学創立史』から

この原則は昔から議論の的になってきたようだ。C・W・アイグルハート著『国際基督教大学創立史』からその一端を紹介しよう。

この方針(筆者注:Cコードのこと)が賢明かどうかに疑問を持つ人からは、「もしキリスト者と、より適任の非キリスト者が応募した場合はどうするのか?」という疑問が繰り返し出された。これには、「その場合は、もっと適任のキリスト者が見つかるまで待ちましょう」と答えてきている。とはいえ、われわれの知る限りでは実力不足だと思われるキリスト者の候補者を教授会が選んだ事例は、いまだかつて一度もない。(中略)概していえば、常勤の教員は全員キリスト者という原則は実行可能であり厳格に守られている。

少なくともこの本が書かれた時点(1964年)では、常勤の教員をキリスト者に限るという原則は問題なく機能していたようだ。

科学関係の非常に優秀な教授の中には、教養学部長をはじめとして、国立大学での地位を抛って、ICUに来任し、そのまま止まってICUのために尽力している人々がいる。それは他でもない、ICUがキリスト教の大学だからである。こうした人々も他の学科の教員も、キリスト教的な生活が公然と、そして、生き生きと展開するキャンパスでの教育実践という新しい試みを、チャレンジとして受けとめたのである。

常勤の教員をキリスト者に限ることは、確かにICUの常勤の教員になることのできる人材の幅を狭めている。しかしその一方で、キリスト教主義に惹かれてICUの教員になる人もいるのだ。そういった教員はキリスト教教育への意欲が高い、と考えるのは自然なことだろう。

そしてアイグルハートはこう結論している。

教員は全員キリスト者という原則が急進的な新機軸であることは誰もが認めるところであり、最終的には修正の必要が出てくるかも知れない。だが、今までのところ、すべてを勘案した上でこの原則で得た財産には素晴らしいものがある。

修正の必要が出てくるかもしれない、という留保はありつつも、アイグルハートはCコードによる利益を高く評価している。Cコードは大学の教員採用を縛るだけの規則ではない。それはむしろ熱心なキリスト者の教員を惹きつけ、ICUのキリスト教主義に基づいた教育を充実させる効果も持つのだ。Cコードについて論じる際には、この点を見逃してはならないだろう。

CコードのないICUは果たしてICUと呼べるのか

さらに、CコードはICUの教育の根幹を支えるものでもあるといえる。大学のWebサイト(http://www.icu.ac.jp/about/commitment.html)ではっきりと示されている通り、ICUはキリスト教によって立つ大学であり、学生はキリスト教に触れることで「個々の人生や社会生活の中における神の存在とその力に目を開くよう」期待されている。それは何を通してだろうか? チャペルでの大学礼拝? 必修のキリスト教概論? 年1週間のC-Week? それらのみでは到底不十分だろう。チャペルには入学式と卒業式以外で行ったことがないという人もいると聞くし、キリスト教概論はたった3単位の授業を1学期受ければいいだけだ。

学生のキリスト教との関わりは、やはり教員との交流の中にあるのではないだろうか。少人数教育、学生と教員の交流を売りにするICUでは、日々の授業で、新入生リトリートで、オフィスアワーで、教員それぞれのキリスト者としての面が垣間見えるときがある。はっきりと神について、聖書について、教員が語ることは珍しいかもしれない。しかし、教員たちの考え方には確かにキリスト教的な思想が通底している。それはICUを国際「基督教」大学たらしめている要素の一つだろう。

もしCコードがなかったら、ICUはどのような大学になるだろうか。私は悲観的だ。Cコードがなければ、国内の他のキリスト教主義の大学のように、教員の内のキリスト者の比率は下がるだろう。そのように、キリスト者の教員のほうがむしろ少ないような状況で、どうやって、ICUらしいキリスト教に基づいた教育ができるというのだろうか。教員が信仰をもっていないのに、学生がキリスト教に触れ、そこから何かを学び取るというのは無理があるのではないか。そうやって、キリスト教主義が形骸化したICUは国際「基督教」大学と呼べるのか。私は疑問だ。

もちろん、現在の状況を全面的に肯定はできない。アイグルハートの言うとおり、いつか修正が必要になるときがくるかもしれない。その時には、CコードがICUのCの根本を支えるものであることを念頭に置いて議論すべきだろう。Cコードを考えることは、ICUのあり方を考えることなのだ。