【寄稿】「理事長よ、ホールでオナニーする前に平和と愛に向き合ってこい」Rethink ICUに批判を投げて、批判的思考と向き合う
|Rethink ICUが終わって早くも1ヶ月が経とうとしている。会にはいいとこも改善すべきとこもたくさんあったけど、自分の中に大きなうねりが残ったのは事実。会がどんなものだったのか、自分がなにを思ったのか、そして差し出がましいことは承知で会を通して伝えたいと思ったことを残したい。自戒も込めて。
まずは理事長のお話、Key-note-talkから。理事長、やっぱさエネルギッシュで面白かったよね。教授と距離感の近い少人数教育を標榜しているICUと言えども、理事長の話を生で聞けることなんてなかなかない。教育理念を理事長が語ることで、この大学は平和と愛に向かって進んでいるんだ、明日の大学としての使命を果たしているんだと現実味を帯びたものとして感じさせられた気がした。でも自分は、教育理念の根幹たる平和と愛への想い、そしてそのミッションの下でICUを設立するために奔走した彼らの熱は響かなかった。ICUで数年を過ごす者として消化したかった。あれじゃあただ名前を当てっこするクイズ大会じゃん。これじゃあ響かないよ、、、そこは深く、真剣に語って欲しかった。
むしろ一番心を動かされたのは前半、理事長のICU時代の話だった。新しい部活を創設したり、彼女を作ったり、憧れざるを得ないキラキラした学生の頃の思い出話だった。そんな話を聞いた自分にはというと、ICUで活き活きとしていない自分の抱えている生きづらさに、そのキラキラした光によって僕の後ろに隠れる影の暗さが増していた。
理事長よ、ホールでオナニーする前に平和と愛に向き合ってこい。ICUでのキラキラ話をオカズに、マイク片手に興奮していた理事長に忌避感を抱いた。なんだか理事長のように行動に移せないやつがわめいているようにしか聞こえないかも知れないが、マスターベーションも場所によっては暴力になることを知ってほしい。もっと理事長の弱いとこ、見せてほしかったな。
次はおそらく批判が一番多かったであろうパネルディスカッション。一言所感を述べれば、”放送ギリギリ”っていう文句への敗北。「”放送ギリギリ”はどこいったんだ笑」っていう印象が頭から離れなかった40分だった。ギリギリかどうか気にしているところにギリギリの緊張感・高揚感は訪れない。パネルディスカッションらしいことをしようとせずに、話の流れに任せて問いを深掘りする、各々の意見を交わすことに執着するべきだったと思う。そうすれば、優等生らしい意見しか言わない壇上の7人の、自己満感が否めないあの時間に嫌気が刺すこともなかっただろう。
とは言ったものの、壇上は壇上。introducingだったよねと言っていた者には壇上でrethinkすることを考えて欲しい。ステージに立つ者にしかわからない緊張感、探り合いがあるのだろう。ホールには200人、オンラインも合わせれば500人近く、ICU生の6人に1人が参加していて、しかも理事長から始まるICUの重役の視線が向けられているなか。会全体の、あの完成度には拍手を送らないわけにはいかないものだと思った。本番場当たり、ゼロイチが繰り返される作業。皆不安と孤独を抱えて開演を迎えたのだろう。そう思い返してみると、理事長の機転の利かせ方ってエグかったよなと思ったりもする。
さて、OpeningとClosing。言及が難しい。スムステの舞から、そして3人の含蓄ある言葉から、好奇心を駆り立てられた。うねりが生まれたきっかけはそこにあったのかも知れない。でも、なんだろう。なんかどうしてもアートと言われるものに批判を投げかけるのが怖くて、とりあえず、なんとなくよかったねっていう言葉しか口に出すことができない。そんな彼らに嫉妬も覚えてしまう。
最後にキャンドルフレーム、みんなどうだったんだろう。ロウソクの火もあって温かな雰囲気に包まれていた気がする。どんな意見も認められる良い環境。やっぱり人から認められると安心できる。みんな違ってみんないいよねって相手を尊重し合うような雰囲気っていいよなぁ。
でもなんだか違和感が拭えない。この感覚、どこかで感じたような。あのELAだ。世の中で認められている主張をなんとなく述べ続けたグループディスカッションの時間。各々の意見を発表して先生は少し小難しいことを言ってるけど、結局は”それな”しか言わないあの時間。違う。合理性の肩に手を回して欺瞞と戦わなければならないのではないか。そう思うと温かな認め合いだけではなく、認め合わないぶつかり合いも必要なんじゃないかな。そんな深いことを、初めて出会った人と、しかもあの短時間で行うって絶対に難しい。それでも、ICUならできるんじゃないかなって、Rethinkがその場に1番近いんじゃないかなって、これからに希望を持ちたい。
そんなRethink ICUが終わった数日後の、ICUから多摩川を超えたあたり。車を運転していたら聴き慣れた曲が流れた。
「あれからぼくたちは、何かをシンジテコレタカナァ…」
スピーカーがこんなことを自分に語りかけてきた。いつもはエモいことばっか言ってるのに、今日はなんだか深いことをしゃべっている。
たしかに。信じられるほどのものを心の中に持ったことがあったかなー。そもそもぼくたちは何を信じてきたのだろう。家族の言うこと?友達の顔色?周りがつくった正義?あの先生の言葉?恋人の理想像?信じるものの先に明日は待っているのか。明日の大学で育つ僕たちは、どこへ向かっているのか。信じるものに盲目になって明日をただ待ち望んでいていいのか。
どんな形でもいい。批判を抱えよう。
そして、勇気を持ってぶつけよう。その批判が傲慢なものにならないうちに。
対話をなぜするのか、目的や意義はそこにあると思う。
心の言葉を紡ぎたい
キリスト教はなぜ我々を救ってくれないんだ
ICUはアメリカの正義から独立して平和を語り得るのか
幼児愛好者は多様性から排除していいのか
インターンでの忙しさを理由にモラトリアムを捨てていいのか
あいつの言う個性はnaturalな個性なのか
なぜICUに来た
お前は誰だ
無批判に生きる者よ
罪を自覚し、大地に接吻をする喜びを知れ
寄り添いのない批判で傲る者よ
沢田教一の愛と勇気に刮目し、罰の下らない世の中を嘆け
【ノムコウ】
書き手が主催者側の人なのがどうか定かではないので何とも言えないが、「壇上でrethinkすることも大変だ」という主催者側の声はちらほら聞いたし、「introducingだった」とは、他ならぬ私が主催者の人たちに面と向かって言ったことなので、多分主催者の寄稿なのだろう、と想定して、その上で思ったことを述べる。主催者の寄稿じゃなかったらすんません。
大変なことを大変だ、と漏らすことは大事なことだが、批判に応える上で「こっちも大変だったんだから」と言うくらいなら、最初から壇上での企画などやらない方が良かったのではないか。
そもそも、対話や理念を促進するイベントで、主催者だけがやたらと頑張って(頑張らなきゃいけなくて)周りを巻き込む形、というところに、「対話」を目指すコンセプトに照らし合わせた違和感や、「啓蒙」的な意識も感じる。
その挙句「こっちも大変だったんだから」という形で批判に対して応じる様では、「自分達が本当にこれをやりたいから」という気持ちよりも、「周りのために自分達が何かやってあげなきゃ」という、意地の悪い見方をすれば「お節介」や、「何か『やってあげよう』として頑張って大変だった『のに』、自分は『より正しい』をしようとした『のに』、それを批判されることへの不満感」でもあるのかな、と思ってしまった。
「何かを変えたい、誰かのために何かをしたいと、『自分が』強く思う」から頑張ること、その「自分」という「物事の動機」の主語が、いつのまにか「誰かのため」という自分以外にすり替わってしまうことは非常に恐ろしいと感じる。
その主語を、あくまで「自分」に留めておかないと、自分は誰かのために頑張っただけ、というような形での責任転嫁、「『良いこと』をしてるはずなのに報われない」ことの不満、などの、「本当に自分がしたい」という動機からは生じ得ないだろうネガティブなものが生じ得るのではないだろうか。
理事長のオナニー批判も頷けるけど、それと同じくらい、「自分達が、『自分たちの中での正しさ』に基づいたオナニーしてしまっていないか」も気を払わなければならないと思う。
「お互いの『正しさ』の折り合い点を見つけよう」というのが「対話をしよう」の本意だと思うが、その実「自分たちの正しさ」の押し付け、から抜け出しきれていないのが、今のICUで語られるところの「対話をしよう」なのではないか、と感じずにはいられないし、告知から開催まで、このイベントを通して感じ続けたことでもあった。
結局、「自分の中の『確固たる正しさ』」を曲げないことは難しく、「対話」とは原理的にほぼ不可能、くらいには難しいものなのだなと感じるし、だからこそ壇上で語れる様なトピックでもなかっただろう、とも感じた。
繰り返すが、「対話をしよう」というイベントをしておきながら、批判に対して「こっちも大変だったんだから」という返事をしてしまうのは、「自分達が『良いこと』をしてる、してあげている」という「自分達の『正しさ』」への驕りが見え隠れするのではないだろうか。それは「啓蒙」であっても、「対話」ではないと思う。
自分も周りもより幸せに生きれるように、あらゆることについて、何が本当に正しい、望ましいのか考え続けたい、と思いながら、自分が他人を「啓蒙」してしまうことに、非常に抵抗感を抱えてしまっている1人の人間として、ただ感じたことを述べさせていただいた。
追記:「啓蒙」がいけないとは思わない。先の男根を模した雪像がキャンパスに作られた時の記事のような、ジャーナリズム(=中立性、単なる提言)の皮を被ったアクディビズム(=偏向性、ある種の「価値観の絶対化」)は非常に恐ろしい。「対話」の皮を被った「啓蒙」になってしまうくらいなら、最初から「啓蒙」に振り切るべきだろう。
自分もそういうふうに感じてました。
やっぱりみんなもっと腹わって話せる場所が必要だと思う。授業でみんなとの調和なんてくそくらえみたいな。そう、カナダハウスとか?
僕は関係者でもなんでもないですし、一意見として受け入れ、とやかくいうつもりはないですが、あなたが理想とするものを作ってみてください。よろしくお願いします