空虚なるかな、「ICUの多様性」──静かな人間の声を聴け
|先日行われた学内イベント、Rethink ICUでは、学長、理事長、および代表の学生ら数人による、「放送ギリギリの対話」と称されたパネルディスカッションが行われた。学生らが手元の端末からwebページを通じてリアルタイムで質問やコメントを送信することはできたものの、ディスカッションは壇上に座した学長、理事長、学生らの間で完結し、ICUの特色を皆で褒めたたえたり懐かしんだりするのどかな論調に終始した。放送ギリギリの対話というより、むしろ大学のPR動画みたいな雰囲気であったと記憶している。「放送ギリギリ」感があったのは、強いて言えば、登壇者らの背後のスクリーンに「オールジェンダートイレを『本当に必要としている』人はいるんでしょうか?(要約)」という問いかけが常時映しだされ、場の空気を微妙にひりつかせていたことぐらいであろうか。
しかし、3000人近くの学生、また教職員全員がなんの違和感も抵抗もなく男女別のトイレを使えるという非現実的な決めつけに立脚した上から目線の言説は、イベント運営側が期待していた類の「放送ギリギリ」発言ではなかっただろうなと思う。いかにも「素朴な疑問」というようなかたちを取ってはいたが、本当にただ純粋に疑問だったのであれば、あの場でjudgingな質問を送信する前に、さまざまな理由から男女別のトイレを使用しづらい人々の事情について、インターネットや書籍で調べれば済むことだ。
匿名性を利用していっちょ抑圧かましたろ、みたいな気概の見え隠れする質問が登壇者らの背後のスクリーンに写されつづけ、司会者の方が若干気まずそうな表情を見せるなか、学長や理事長らが和やかにほめたたえる「ICUの多様性」の観念には、どことなく空虚さを感じた。
とはいえわたしも、その場で質問主に反論することができなかった以上は抑圧に加担してしまったことになる。このことを反省しながらも、発言の機会を提供されていない観客とその場での言説の主導権を握っている登壇者らとでは責任の重みが異なることを考慮し、少なくともこの記事では、観客の立場から登壇者ら(主に学長、理事長)に批判を加えることを許してもらいたい。
さて、わたしは諸々の疑問を感じつつも興味深くディスカッションに耳を傾けていたが、ディスカッション終了直後、「ICUの多様性」の空虚さをますます感じさせる発言が理事長からなされた。まず、登壇者らの発言を一言一句メモすることは不可能であったから、実際の理事長の発言とニュアンスなどが微妙に異なる可能性があることは断っておく。おおまかに要約すると、理事長がおっしゃったのはこのようなことであった。
「もっと(学長、理事長らを)追い詰めるような質問が(観客席の学生たちから)来るかと思った。いまの学生はおとなしいですね」
理事長はどのような学生像を期待していたのであろうか。教授らに鋭い質問を投げかける、恐れ知らずの熱く無鉄砲な若者、といった古典的な大学生のイメージだろうか。たしかに、このような学生像は魅力的である。権威や場の空気に怖気づくことなく素早く意見を表明できるという特性は、学生が持ちうる美徳のひとつといえよう。先述した抑圧的な質問に対しても、このような美徳を備えた学生であれば観客席からであっても即座に発言し、本来その責任を負うはずの学長や理事長らに代わって、オールジェンダートイレを必要とする学生および教職員らへの連帯の意思を示せたに違いない。
しかし、である。ICUは学生の多様性を受け入れる大学であるうんぬんとほがらかに褒めたたえた直後に、特定の発話の在り方に関する得意不得意を全学生の批判的思考や気概の有無と直結させる、まことに画一的な発想に基づいた発言がなされたものだから、わたしは客席で軽めにずっこけそうになった。われわれ学生が四年間かけてICUで学んでいくさまざまな美徳──たとえば権威を疑うこと、批判的思考などの美徳は、それこそ非常に「多様」なかたちで発揮されるもののはずだ。われわれの学長や理事長に対する批判的なまなざしは、「客席で前触れなく立ち上がり、声が届くかどうかもわからない壇上に向けていきなり大きな声を出す」という特定の行動によってしか認められないのか。そのような発話ができなければ、われわれは皆一様に「おとなしい」学生であるということになるのか。まさかそんなわけはあるまい。
理事長らが称揚する「多様性」は、エスニシティや人種、ジェンダーやセクシュアリティなどの分野はもちろん、認知やコミュニケーションといった分野にも鮮やかに横たわっている。当然、発話に関しても、われわれのもつ性質は驚くほど多様である。口頭での発話よりも文面上で言い募ることを得意とする学生(会場で抱いた疑問を何日も経ったのちにつらつら書いているわたしもこのタイプであろう)。一対一の対話には自信があるが、多くの聴衆の前で話すことは不得意である学生。聴覚からの情報処理能力が低い、あるいは聴覚が過敏であるなどの特性のために、口頭での議論に参加するのが難しい学生。他の参加者の発言の合間を縫ってタイミングよく発話することが困難な学生…など、列挙してもきりがないほどである。
画一的な「コミュ力」至上主義が横行し、軽快に適切な発話ができる者以外はひとしく「コミュ障」とくくられがちな世の中ではあるが、学長や理事長があれほど大々的に「ICUの多様性」を称揚する方針なのであれば、学生ひとりひとりの個性はもちろん、その個性に内包されるニューロダイバーシティなどにも目を向けるべきであろう。そもそも観客の自由な発言が許可されているのかどうかすら明らかでなかったあの場で、われわれ学生の共通項といえば、理事長が期待する発話をうまくできなかったというだけである。それだけのことで、これほど多様なわれわれ学生が、「今の学生はおとなしいんですねえ」の一言で済まされてたまるか。理事長の言うとおり本当にわれわれ──無言で客席にじっと収まっていたわれわれ──が皆一様におとなしかったならば、今頃こんな記事もわざわざ書かれていない。
……これはうがった見方かもしれないけれど、おそらくこの記事を読んで、「コミュ障」が負け犬の遠吠えみたいな記事を書いているなあ、と思われる方もいるのではないだろうか。画一的なコミュニケーションの能力が人間の価値そのものを採点するような風潮のなかにわたしたちは生かされているから、そのように感じる方がいても不思議ではない。だがわたしは、仲の良い友達グループ内で会話しているときすら発言のタイミングを逃しておろおろしているような類の人間として、あくまで開き直り、「静かな人間の声を聴け」と言いたい。個人レベルでももちろんだが、組織を挙げて「多様性」を称揚しているような場合はなおさらである。特定のコミュニケーションや発話の方法に馴染んでいないという程度のことで他者を侮るのを、わたしたちは止めるべきだ。でなければ、「多様性」というスローガンは羊頭狗肉に終わるだろう。
最後に、前例のないコロナ禍で学生たちの現状を憂い、Rethink ICUを起案し、開催までこぎつけ、多くの学生に新鮮な体験を提供してくださった運営陣、およびプレッシャーのかかる状況で自らディスカッションに参加した学生の方々に敬意を表する。このような記事を書くに至る問いが生まれたのも、Rethink ICUというイベントがその機会を与えてくれたからである。さまざまな改良を加えながら、来年度以降もイベントが開催されることを期待している。
【Zoe】