「寛容の欺瞞」 諦めと悲しみと、そこから始まるもの
〜森本あんり先生インタビュー〜[前編]
| 本記事は、22年1月発行の学内向け紙版媒体 The Weekly GIANTS No.1256に掲載された記事です。
〈敬称略〉
事前に用意した6つほどの質問について、私、花田太郎(ID24)が、森本あんり先生にインタビューさせていただいた。先生は著書、ブログ、テレビなど諸媒体での発言が多く、それらの聞き直しにならないようにも、「ICU、世界人権宣言、寛容」というテーマに強く関連した質問作成を意識し、それに答えていただいたのが今回のインタビューだ。
ーー1つ目の質問「入学式で世界人権宣言に署名を(ほぼ強制的に)させられて、もし拒否したら入学できないのだろうか。これはリベラルへの押し込みだったり、不寛容な人への不寛容という寛容のパラドックスに関わるのでは。」について。
森本:どういうふうに答えようかな。「署名を拒否したら入学できないのか。」それは僕の立場でいうことじゃないけど、一人の教員の立場で言うならば、「そんな奴は来るな」としか言えないよ。それは、その人の人権に差し障ることか?違うよ。ICUはプライベート団体なので、自分たちが来て欲しいと思う学生をこちらで選ぶ。国立大学とかなら少し違うかもしれないけどね。入学試験をやるのと同じだよ。入学試験で学生を選ぶでしょう。学力だけで選ばなきゃいけない理由はない。
花田:確かに、推薦入試などもあると考えたらその通りですね。
森本:ICUはそういう学生が欲しい。欲しくない学生もいる。だから、「ほぼ強制的に署名をさせられて、拒否したら入学できないのか」という問題については、制度上の話は別にして、理念としてはそうです。そんな学生は欲しくありません。それは「不寛容な人への不寛容」か。そうです。寛容を守るには不寛容になることが必要です。寛容ってね、素敵なことみたいにみんな思ってるらしいけど、全然そうじゃないよ。不寛容がないと寛容は成立しない。だから、「寛容でありなさい」と言うこと自体が素晴らしいことだとは僕はあんまり思っていません。
花田:確かに、「寛容であろうとすることはすごい苦しいことだ」と僕は最近友達と話しましたし、「多様性とはものすごく嫌な気持ちにさせられるものだ」という話も聞きました。(後述の『正欲』(朝井リョウ著)の内容)。寛容とか多様性の尊重というと、(そうした苦さを無視した)良い面ばかり持ち上げられているような気がしますが、確かにそれは違うかもしれませんね。
森本:そういうリベラリズムの欺瞞、嘘。そういうものにみんな気がつき始めてるんだよね。トランピズムの問題もそう。
君は今、多様性の話に触れていたけど、ICUでは同性愛とか多様性に関する議論が当然のこととして進められてるね。同性愛者を差別するのはけしからん、となっているね。女性差別もけしからん、と。それは僕も良いと思う。だけど、多様性っていうのは、性的指向の多様性を認めることだけじゃないと、僕は思うんだよ。実際、僕のところには保守的なキリスト教徒の学生も来てるよ。僕はそういうキリスト教理解はしないが、保守的なグループの中には同性愛を正しいと思わない人たちがいる。(その学生は)「私はICUのポリシーを知っているから尊重はするけれど、私の(同性愛を認めないという)世界観とは違うから苦しい」と言ってくるんです。でも、そんなことはICUでは絶対言えないんだよ。そういう空気があるのは不寛容で、多様性に欠けると思う。大体、そういう人に対する反応は決まっている。同性愛は認めないなんて言うのは時代遅れで偏屈なキリスト教だから、そんなものは早く捨ててこい、となる。
花田:うーーーーーん、なるほど(苦笑)。
森本:そう言えるのか?それが僕の質問。
花田:(「そんなものは早く捨ててこい」という)そのセリフが寛容なのか不寛容なのか、全然わからなくなりますね。
森本:そうなんだよ。ここは是非書いて欲しいところだけど、ICUではそういうところに誰も疑義を差し挟まない。保守的なキリスト教徒の人からすれば、「お前ら考え方変えてから出直せ」って言われてるようなものだよ。
花田:色んなところでそういうことはありますね。
森本:だから是非書いておいておいて貰いたい(笑)。今、僕は保守的なキリスト教のことを話したけど、今後イスラム世界にもICUは開かれていくでしょう。現在でもムスリムの学生たちが入ってきている。僕はすごく歓迎したい。だけど、同性愛のことをどう思うか、彼らに聞いてごらん。保守的なキリスト教どころじゃない。イスラムでは同性愛は絶対に許されないよ。そうすると、ICUのジェンダー研(ジェンダー研究センター)では、「今後、イスラム教徒は絶対お断り」ってことになるよ。そうならざるを得ない。でもそれを誰も理解していないよ。自分たちは寛容で、誰でも受け入れられると思っているんだよ。でも実際は全然そうじゃないぜ。「あんた方のような考え方はお断り」と言われている人たちが実はたくさんいるってことなんだよね。それがリベラリズムの押し付けです。リベラルを自任する人たちが、「リベラルでないとICUでは受け入れないぞ」と言っているわけですね。
ーー「結局リベラルしか認めない、リベラルでない人たちを如何に啓蒙しようか、という意識がICUでは強いと感じる。それは宣言にあるような相互理解や寛容の精神に反してはいないか。」という質問について。
森本:ちょっと指摘しておきたいのだけど、世界人権宣言には「寛容」という言葉は出てきません。そういう精神に似たものは出てくるかもしれないし、それはそれでよく読んでおくべきかもしれないけどね。寛容というのはしばしば、リベラルな社会がそうでない社会に押し付ける思想だからね。イスラムの人たちはまさにそういうのが嫌いな訳だ。そういう意味ではICUも不寛容だね。寛容の押し付けをするリベラルな連中は、自分たちは寛容だと思い込んでいるけど、実はそうでないことがわかっていないってことがある。
花田:寛容と不寛容は裏表で、寛容100%とかは土台無理な話だなと思うのですが。では、そういう場合はどうすればいいんでしょうか(寛容であること、をどう捉えたらいいのか)。
森本:寛容には必ずリミットがある。誰に対しても寛容なんてのは原理的に不可能です。自分は寛容だと思い込んでる連中に限って、そういうことについて非常に不寛容だということがよくある。
ーー「ICUの中の「基督教」の文字は形骸化してしまってはいないか。」という質問について。
森本:君にメールで送った文章(当記事(後編)末尾に表示)の中にあるのだけど、創立10年の時点ですでに、キリスト教精神や世界人権宣言が形骸化している、と危険視されているよ。
花田:あれには驚きました。
森本:創立10年の頃に言われていたのは、「ICUは成功した」ということ。非常に人々にインパクトを与えた。しかし、成功したがゆえに堕落した、失敗したという逆説があるんです。ICUは元々、日本の教育システム全体にチャレンジを突きつける大学です。今でもそうありたいと願っている。だから、君みたいに東大に行きたかったなんて連中はICUではお呼びじゃないんだよ、要するに(笑)。
花田:なるほど(笑)。(私が東大に入りたくて2浪した話をインタビュー前にした)
森本:東大を頂点とする日本の教育システム全体にNOを突きつける大学なんですよ。それなのに、日本の戦後教育制度の中で、ある程度成功しちゃった訳、ICUは。結局取り入れられてしまったわけです。文科省だって、色々とICUのやり方を真似てるじゃないですか。入学試験のこととかで。それはちょうど、ロックミュージックが体制批判の音楽として始まったのに、いつの間にかメジャーな音楽産業の中に取り入れられて金持ちの音楽になってしまったのと同じ。
花田:教育システムの中に入ったことで日本全体の改革に繋がったというより、負の側面が大きかったということですか。
森本:それは見方によります。ICUができたことによって日本の教育が良くなったと見ることもできると思うよ。ただ、創立10年の時にすでに危機感が出ているんだよ。そういうことに自覚的な大学ではあると僕は思います。「俺たちは成功して良かった万歳」だけじゃないんだよ。
花田:なるほど。
森本:だから、「キリスト教精神が形骸化しているのでは」という質問には、「そういうことは昔からずっと言われ続けてきたことだ」、としか言えないな。こういう問いが出てくること自体が、大学が健康だという証しなんだよ。形骸化しきっていたらさ、こういう質問は出ないよそもそも。
ーー「なぜ「世界人権宣言」という特定のところを贔屓したり肩入れしたりを是としてないものを理念の根幹として掲げているのに、国際「基督教」大学なのか。」という質問について。(授業で森本先生が、「ICUがなぜ国際ヒューマニズム大学ではなく、国際基督教大学なのか考えましょう。」という旨の話をされたことに基づく。)
森本:それは、ヒューマニズムがヒューマニズムであるためには、それだけでは足りないと言うことです。人間を超えたところに基礎づけがない限り、人間の尊重という考えは出て来ない。ただのヒューマニズムだったら、人間が一番偉いのなら、環境破壊だって悪くないと言うことになります。人間さえ良ければいいわけですから。
[後編に続く]