[2022R-Weeks(6/6~6/17)迫る‼︎]
逆説的な「優しさ」と、逆説的な「強さ」
2021R-Weeks 千葉雅也氏講演会 体験記[前編]

この記事は2021年6月発行の学内向け紙版The Weekly GIANTS No.1254(ジェンダー特集号)に掲載された記事です。

虹の映えそうな空。東の空には月。

6/6-6/17、CGS主催のR-Weeks(Rainbow Weeks)が始まります!R-weeks はジェンダー・セクシュアリティに関する問題意識と学びを深め、ジェンダー・セクシュアリティを中心に、キャンパスで感じた様々な問題に対してより対話・発言しやすい環境を作るためのプロジェクトです。R-weeks期間中はトークや映画上映など様々なイベントが開催されます!(2022/05/30 ICU Portalより)

(以下本文)

R-Weeksのイベント、「これからのクィアポリティクスを考えようー否定性の複数性について 登壇者:千葉雅也、ICU PRISM」に参加してきた。これはその「体験記」。レポートではないことに留意されたい。私の守備範囲外だった一部の学術的な話がよくわからなかったのが原因である。だが幸いにも、千葉さんの具体的な体験に基づく話が主だったので、ちょうどいい具合に理解できて、多分に内省と熟考の機会、きっかけを与えられた。その体験をここに共有しようと思う。

 様々に説明、感想を述べていく前に、講演で語られたことの根底にあるメッセージを理解するために欠かせないものであろうから、このイベントの告知に添えられた千葉さんのコメントを紹介しておこうと思う。「どういう話をしようかと考えましたが、たぶん、同性愛当事者としてのこの20年の多少の苦労話、あまり他でしていない話をします。この間の世の中の変化についてなぜ僕はアイロニカルなのか。」(千葉さんのTwitterの一投稿より抜粋)

 講演の運びは以下の様であった。全体を通して、千葉さん自身の体験に関連づけられた語りだったが、最初は学術的な話の比重が多め。後半に、前半の内容の具体例のようなかたちで、千葉さんが自身の20年間を振り返りながらお話しされた。1時間ほどの講演の後、質疑応答が30分ほどあった。

 一応、講演参加申請者に送られてきたメールや、ICU PRISMのSNS告知に記載されていた、講演の紹介文を以下に載せておく。因みに私はこれを読んで、本当に講演を聞きにいくかどうか、少し考え直しそうになった。聴講を終えた今でも、正直これらの内容を全てうまく説明できる気はあまりしない。

「Description: 二つのラディカルな問いから始めよう。

①アイデンティティポリティクスにおける当事者中心の運動とシチズンシップ志向の政治におけるマジョリティへの同化主義、これらとは違う形での『政治』はどのようにして可能になるのか?

②『ある程度マイノリティの理解が進んだ』昨今の状況のなかで、マイノリティが支配的な規範や文化に抵抗するなかで編み出してきた、多様かつ複数の『否定性』はもはや乗り越えられるべきものでしかないのか?

 本講演では、形式化したポリティカル・コレクトネスに見られる『禁止』の論理や婚姻規範への同化に典型的な『包摂』の論理とは別のしかたで政治哲学を考えてこられた哲学者・批評家の千葉雅也氏をお招きし、いまとこれからのクィアポリティクスを考えていく。」

 そのためひとまずこの紹介文は置いておく。講演のキーワードを私なりにあげるなら、「否定性」「マゾヒズム」「私的と公的」「明快さと複雑さ」などを選びたい。事実、これらに即したメッセージが強調された2時間弱だった。

 まず、ジェンダー・セクシャリティと社会の関係性の変化について、千葉さんが客観的な所感を話すところから、講演は始まった。千葉さん自身、ジェンダー・セクシャリティ系の話をするために招かれる体験は初めてであるとか、「招かれてこの議題で話をしようとしている現実に、20年経ったか、と感慨を覚えますね」と述べていたことから、所謂「時代の変化」なるものに、世間一般によくみられるような、ポジティブな捉え方を持っていない訳ではないということが感じられた。一方で、既述のように「アイロニカルである」と断言もしていた。恐らくは誰でも、でも特に、マイノリティ当事者としての立場から抱きうる、このような二重の所感。これこそがこの講演の核心だった、と改めて感じる。

実体験に基づいた「アイロニカル」の源

 続いて、千葉さん自身の具体的な実体験に基づいた話から、千葉さんを「アイロニカル」たらしめている他者、ひいては社会の姿勢の分析が展開された。例えば、カミングアウトを取り巻く、今と昔の空気感の違い。また、例えば2000年代半ばから論壇に出始めた「セクシュアリティ系の言論者」たちと交流した時の違和感。そして、特に印象的なのが、大学時代の論文作成にあたって受けた差別的とも取れる助言と、結果として、多少の方向転換をして、今に至った来し方。一つずつ詳しく紹介していく。

 一つ目に、曰く、昔は「いい意味で」カミングアウトプレッシャーがあった、とのこと。社会がジェンダーを、恐らく初めて意識し始めたが故に、「受け入れたい」「理解したい」「社会の変化を歓迎しよう」という、言ってみれば「純粋さ」が、当事者たちの外側からも、内側からも発せられていたが故の空気感だった、と私は解釈した。それが、昨今では、主に「アウティング」(=本人の望まない形で他人が個人のセクシュアリティを暴露すること)などが常に念頭に置かれ、前述のようなプレッシャーは「あまり良くない意味で」少なくなっていることも指摘された。やや捻くれた見方であるだろうけれども、「腫れ物に触るように扱われるようになった」という形容は、恐らく的外れではあるまい。

 二つ目に、大学を経て言論者として活動し始め、同時に「セクシャリティ系の言論者」も増えてきていた時期に、自分がカミングアウトしているのに、同じ特性、例えばクィア(=同性愛者、特に男性の)などを持つ言論者であろう相手が、自分のように積極的にカミングアウトしてこない実情を感じたという。セクシュアリティというそれ自体いくら学問化しようとしても、私的、個別的側面とは切り離せない事象なのに、自分のセクシュアリティという私的な部分を綺麗に切り離そうとしている態度が疑問だった、ということを言っているのだろうと、私は解釈した。

 そして、少なくとも私にとって、最も重みのある一連のエピソード。大学時代、論文指導の教官に言われたという、恐らく千葉さんのセクシュアリティを知った上で飛び出した、「性の問題が重要なのは若い時だけ」という台詞。これをきっかけの一つとして、千葉さんは、正面切ってクィアの言論者として活動していくのではなく、思想や哲学、具体的にはフランス哲学に焦点を当てて言論をしていく方向に舵を切ることになった。それでも、自分のセクシュアリティを持ってして言論をしようという意思は、持ち続けていたという。

 話だけ追えば、この指導教官の発言は立派な差別的要素を含んだものと捉えられるし、それは千葉さんも進んで認めるところだ。だが、その結果はどうであったか。クィアや性的マイノリティへの社会の関心が少なく、その機運の醸成も現在よりも全くなされていなかった90〜00年代。その時に、クィアないしセクシュアリティ系言論者として立ち上がり、より孤独に活動していくことより、フランス哲学に沈潜しつつ、セクシュアリティという、自分個人に特別な議題との融合点を見つけていく道に方向転換した。より具体的には、「性をそのまま論じていなくても、性の問題を扱っている『ことになる』論理構成をどうつくるか」という姿勢が生まれたという。その結果として、20年経った今の自分に、千葉さんは少なからず満足している様に、私には感じられた。

 そして、千葉さん自身がこれらの経験と道程を振り返って述べたことは、なかなかに多くを物語っていると思う。「ストップをかけられた苦味、その時感じた否定性も含めてよかった。人生にひだ、シワができたと思う。この体験の元になった、教授の助言のようなもの、一連の出来事丸ごとを、差別と言って全て無くしてしまえば、人生はすごく平板で退屈なものになってしまう。」

 ここに至って初めて、私は、あの難解な紹介文、その中の「『否定性』はもはや乗り越えられるものでしかないのか?」という「ラディカルな問い」の意味と、そこに示唆されたメッセージを感じ取ることができ始めた気がする。

「アイロニカル」の根幹へ

 ここから講演は、少し学術的、専門的な話に移っていく。そして「アイロニカル」の根幹に、より迫っていく。内容としては、キーワードとした「マゾヒズム」、これのより人間の根本に関わる形での視点や、人間の性、ないし人間そのものは、「本能半分、倒錯半分」の存在である、といったもの。千葉さんは、複数の学者や精神分析にも触れながら論を展開したが、特にこれらの議論に関して、私には不明瞭、知識不足で理解不能な部分が多少あったので、千葉さんの意図と合致した解釈であると、十全には保証できないことを先にお詫びしたい。

 初めに「マゾヒズム」であるが、これらは、先に私が述べた、「腫れ物扱い」のようなフレーズと対置することが重要だと思う。具体的には以下のような千葉さんの論理から、「腫れ物扱い」の実際について考えられると思う。

 そもそも千葉さんに言わせれば、今日の社会一般において「LGBTQを差別してはいけない」は、「駅前に自転車を止めてはいけない」と同じ構造をした概念と化しているそうだ。「他人に迷惑だからやっちゃいけない」が念頭に置かれているのだという。あまつさえ、法律で差別を禁止する、という取り組みの裏には、性悪説、つまり「差別する奴は変わらない、だから法で縛る」という図式を感じるという。こうして管理が、ポリコレ(=政治的妥当性。昨今存在感を増している考えだが、時として同調圧力的に個人の思想や表現を制限しうる危険性もはらむ)がだんだん強くなってきている現状を、千葉さんは良しとしない。講演の後の方になって出てきた表現であるが、千葉さんは、「セクマイ(=セクシュアル・マイノリティ)の問題が性の哲学ではなく、公共政策の論理になってしまっている」と指摘する。非常に鋭い指摘だと、とても納得させられた。つまり、ジェンダーを取り巻く、摩擦や衝突を解決しようとする取り組みは、「相手への尊敬と思いやりを持ちましょう、そのために性に関わる事象に向き合いましょう」という「性の問題」ではなく、「差別を生まない構造をつくりましょう」という「公共政策」であると考えられるのだ。そうではなく、あくまで「性の問題」であることから離れずに考えたい、それが適切だろう、と、ここでは強く訴えられているのである。

 後に述べるが、「倒錯」の概念もこの方向性を後押しする。私は、この分析と主張に全面的に同意すると共に、後者のより望ましいであろう捉え方に比べたら、まさに前者は「腫れ物扱い」であるだろうと思う。棲み分けを図ることを至上として、根本が異なる他者同士向き合わせようとする姿勢がそこには無いから。

 だが、「棲み分けの何が悪いんだ、差別から当事者を守ること、当事者が傷つくことを避けることを至上として、そういう選択肢があるんだろう」という反発が、上記の批判には寄せられるだろうことも考えられる。事実、「傷つかない、傷つけないこと」を強く重んじている現代であるから、そういう方向に制度や法の上でも擦り合わせが起きているのだろう。

 だが、他でもないこの場の議論において、この社会全体の偏向性に抗う姿勢として、「マゾヒズム」の論理の自覚が熱く訴えられるべきなのだ、という主張が、千葉さんが特に力点を置いていたメッセージの1つだったと感じる。そして先に述べた、千葉さんの「苦味、否定性も含めて良かった」と現在になって肯定できているこの現実が、この「マゾヒズム」をとてもよく表象していると、私は思う。

 「純度100%の悲しみも喜びもない。原理的に言えば、あらゆる知覚は『刺激』なのであって、すべての経験は苦痛だとも言えるし、それがマゾヒズム的にねじれて快楽となるのである」「夏の光を浴びるのも、根本的な意味でマゾヒズムで、マゾヒズムはとても広く扱える」「許容できる経験とできない経験を分つ線はケースバイケースであり、同じ人においても一定ではないし、一定にすべきものでもない」これらは講演で表現されたそのままの文言で、レオ・ベルサーニやジャン・ラプランシュという学者に準拠しての説明があった。しかし前述の理由から、申し訳ないが、主に私自身の解釈を展開させてもらう。

 とはいえ既に紹介した大学時代のエピソードで、ほとんど全て説明されきっている気もしている。「いざこざが起こり続けていることが大事、全部同じなのはファシズムなのだ」とも千葉さんは付け加えた。繰り返しになるが、根本的には、どこにも行き着かない「腫れ物扱い」が、結局1番の問題なのだと思う。

[後編へ続く]

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