ベルリン、プチ留学記

※この記事は、22年秋発行の学内向け紙版「Weekly GIANTS No.1260」に掲載された記事です。

ベルリンの夕暮れ(21時手前)、
学生村から眺めた飛行機雲。

 ドイツ、ベルリンにプチ留学してきた。到着前の、禁煙するかーというぼんやりとした気持ちは、空港の正面に出た瞬間、路上喫煙の大群に吹き飛ばされた。どこにでも灰皿があるのに、それをものともしない、道端の大量の吸い殻。ベルリン、汚ねえ。日本が綺麗すぎるだけかもしれない。通学路途中の賑やかしい駅前の路上、形を残したまま粉々に割れたビール瓶は、何よりもベルリンという街を象徴している気がした。スーツケースとは最初の5日間離れ離れで過ごしていた。その間にカードが不正利用の疑いとのことで入国して速攻で止められてもいた。まあ話のネタが増えたなーと半ば面白がっていた。メンタル強い。初めての海外旅行かつ単独旅行で、リュックサック1つでしばらくの間過ごさざるを得なかった。ちなみに、待っててもダメだと直感したので、3日連続空港に通って、終いには初日の授業終わりにそのまま空港に行って、やっとの思いで荷物を取り返した。同じ経験をする人もなかなかはいない気がする。やっぱり僕は「持ってる」男だったらしい。これ以上のインパクトのある土産話はもう出来ないだろうと思っていたが、帰りは飛行機が縦揺れしまくって死を覚悟しかけた挙句、6時間遅延してイスタンブール空港で18時間待ち続ける羽目になった。やはり「持ってる」。

 本館までチャリ10分圏内の住民なので、バスで50分弱、9:00スタートの授業はきつかった。多分だけど、僕はICUでの2年半、1限の授業をほぼ全く取ったことがない。どうせ起きれないので。最後の週は起きれなくて半分くらいしか授業に行かなかった(成績はかなり良い方だったが)。後に実はめちゃめちゃ授業料が高かった(寮費は普通)ことを知り、普通に落ち込む。留学 is 金かかる(マジで)。飛行機代とか特に。

 韓国から来たガタイのいいほんわかした奴と仲良くなって割とずっと話していた。正直お互いに、英語がペラペラのアメリカ人やヨーロッパ人と仲良くなるのが難しかったから、自然とよく話すようになったのだとも思うけど。互いに自分達の英語力の無さを惜しんだが、考えてみれば、初めて海外に行って、そこで英語ネイティブじゃなくても、母国語の違う友達とすごく仲良くなっただけでもだいぶよくやってる方だなと思い直した。モノは捉えよう。ウズベキスタン人の友達もできたし。そのKorean buddyも、他の韓国人留学生(やたらと多かった)も、日本を割とよく知ってて、興味もあるんだなーという印象を受けて、海外あまり興味ない、知らない人の僕としては少し申し訳なく思った。帰国後に、昔一瞬勉強した韓国語をまた勉強しようかと思ったが、学期中に授業以外の勉強に労力を回せるはずもなく、断念。別れの前日にそのbuddyは韓国のものを沢山くれた。マスクとかでっかい辛ラーメンとか。徴兵で軍隊に行っていた時のものと言っていた、彼がくれた韓国旗の刺繍パッチは、今部屋の壁に飾ってある。この冬かもう少し先か、彼が日本に来た時に、僕からは何を贈ろうか。ゆっくり、しっかり考えておこう。

 留学のポジティブキャンペーンは嫌いだ。勉強自体は、快適な慣れた環境の方が捗りやすいし、どこにも行かなくても、いつもの暮らしを続けていても、世によく言うような「自分の殻を、常識を破り」「大切なことに気付く」機会は少なくないと思うから。そういう機会に常に敏感に気付けるようで在りたいとも思うから。帰国直後は、「楽しかった?」と聞かれても、「色々あった」とだけ答えていて、経験したことの消化に時間がかかっている節もあった。「留学」といえど、実際どれくらい勉強するかは人によって違うし、自分の場合は「遊びに来た訳じゃないぞ」とずっと自分に言い聞かせて1ヶ月くらい過ごしていたから、素直に「楽しかった」という気持ちにならなかったのかもしれない。結局当初の(適当な)想定通りの勉強の成果を納められたわけでもなかったので、今でも「楽しかった」と心の引っかかりなく答えられるのかはわからない。前述の通り留学はマジで金を喰う。それも今のこの微妙な所感の原因でもあるし、留学のポジティブキャンペーンが嫌いな理由の1つでもある。大事なこと大切なことは、お金を積めばそれだけ優先的に到達、発見できるものではなく、誰にでも開かれたものであってほしいし、きっとそうだと勝手に信じている。足るを知る人間で在りたい。だけど、きっと僕は平均よりかは恵まれている人間であろうという、驕りではない自覚もあるから、こんなことを言うのにはある種の後ろめたさも常に伴うけれど。

 留学自体への感想はこのようにモヤモヤしているが、ドイツから絵葉書を沢山送ったことは、純粋に大切で良い思い出として残っている。95セント、DeutschlandとFlockenblumeの表記。赤い矢車菊の花の切手を貼って贈った。幾つか、とっくに届いていていいはずなのに届いてないと聞いた時は、普通に悲しくて落ち込んだ。その後、やっと届いたことを知らされた時はすごく嬉しかった。絵葉書を買って部屋に飾るのも好きだから、沢山買って沢山貼り替えた。いつも紫煙を浴びている絵葉書たち。あまり細かく考えず、とりあえず絵葉書を沢山沢山買ってお土産にしたけど、思ってたよりお土産を渡したい相手が多くて、すぐ足りなくなってしまったことを少し悔やんだ。それから、昔3年を過ごしたスイスの街を、18年ぶりに訪れたことも良かったかもしれない。かもしれない、というのは、特別強烈な感激などは感じなかったから、というのがある。前から気付いていたことではあるが、今この時、を殊更強く大事にしている僕は、昔馴染みの土地や場所にまた行きたいと思うことも、行って感激することも、多分人より控えめだ。それでも、ライン川と、そのほとりの町の景色はとても綺麗だった。住んでいたアパートの庭にも、記憶の中そのままの色鮮やかなオブジェが残っていた。停留所からの道をなぜかはっきり覚えていた保育園はもう無くなっていて、昔は歩くのが大変だった近所の長い一本道も、もう全く長いとは感じなかった。それぞれの場所で昔を振り返っては、僕はなぜだか煙草を吸いたくなった。

 7月下旬、ドイツへの経由地の香港に降り立ってから、5週間後、やっとの思いでイスタンブール空港を離れて日本へと飛び立った午前2時過ぎまで、海外だからと浮き足立つことも、俗に言うカルチャーショックを感じることもなかった。人間はどこでも人間だと思うし、日本人の眼は死んでいて、海外はもっとあたたかい場所だ、なんて思わない。ベルリンの遅い夕暮れの中、湖のほとりのバス停前で、煙草に火をつけてため息をつくおじさんを見ながら、そう感じたことを覚えている。日本が「日本、良いとこ」との羨望を受けやすい国かもしれないということは微妙に感じるが。日本社会を蔑んで海外の暮らしや文化を持ち上げることは僕の趣味ではないし、その逆も同様だ。ただ自分の進みたい道を考えれば、じきに、日本の、少し捻った意味での「住みやすさ」を離れ、異国の文化の中で生きていかなければいけないだろうなと、ただただ冷静に感じるだけだ。一口に「海外に触れる」と言っても、旅行なのか滞在なのか、長期なのか短期なのか、どういう場所で過ごすのか、それによってその内実は相当程度変わってくる。僕の留学先はアメリカ、韓国、ヨーロッパからの留学生ばかりで、現地ドイツの学生と触れ合う機会が皆無だったことを考えるとそう感じる。いくら海外が「あたたか」そうに見えても、柵を飛び越えて、長く辛抱強くそこに留まってみない限り、きっと隣の芝生なんていつまでも蒼く見えるままだ。

 「いつか」「どこか」志向を良しとしたくない僕だから、「置かれた場所で咲きなさい」なんて言葉が、僕のこの所感を表すのに概ね合っているのかもしれないと思った。けど、完全な受け売りだし、前述の通り、僕は、場所への思い入れも人よりきっと薄い。スイスの町を最後に、昔馴染みの土地は一通り訪ね終わったが、毎回、自分はこの場所での誰かとの時間を愛しんでいたんだなということと、だから1人でそこを再訪しても感動しきれないんだな、ということだけを感じて帰ってきた。だから「置かれた場所で咲く」という表現は少しそぐわない。ならば人との繋がりの上に根を張って、「花を咲かせる」のであれば良いのだろうか。でも、場所が離れ、身分が離れると、どんな強い繋がりも必然的に薄れていくことも、最近ますます身に染みているし、常に移り変わるものの中に強い土壌を見つけることは厳しそうだ。であれば、そもそも土壌なんて要らないのかもしれない。根を下ろす、という言葉には、縛られるというネガティブさを感じてしまう僕でもあるから。

 だったらどういう喩えがいいのだろう。ちょっと考えてみたけど、根のない花なんて花火くらいしかなかった。生き様の比喩としての花火なんてありきたりだけど、よく考えたら、そこでいつも引き合いに出される打ち上げ花火や線香花火より、まず気にも留められない、ガサツで強烈な、やっすい手持ち花火が1番ぴったりな気がする。新発見。場所から場所へ移れて、人から人へ手渡しできる。煙も音もすごくて、最初から最後まで同じ強い勢いのままなのに、特に予兆もなしに、気がついたら「あー消えちゃった」みたいに消える。僕にはすごくしっくりくる。燃え尽きるように生きて死にたいといつも思っているから。

 今年の夏の初め、山奥の施設での合宿の夜、手持ち花火を楽しんだ。ぶんぶん振り回した。みんなの目の前で強く激しく燃えるから、その残像も、優雅な線香花火や打ち上げ花火より、はっきりと残り続ける気がする。無数の星が瞬いて見えた程に、濃くて深い奥多摩の夜の中で、目に焼きついた緑色の焔を、その粗く激しい輝きを、今も鮮明に覚えている。

【花田太郎】

[web掲載にあたっての編集後記]

 春休み、だいぶ久しぶりに、1人の時間を多く過ごした。充実とか幸せとか満たされた気持ちとか、自分の工夫で見つけるものだと変わらず思い続けている。お金がかかる場合もあるけど、そうじゃない場合もちゃんとある。小さな幸せ、とか言うけれど、そりゃあ達成しづらい、到達しづらい「幸せ」もあるかもしれないが、感じたままの気持ちに大きいも小さいもないだろうと思う。今はとりあえずギターをひたすらに練習したい。誰かに披露できるように上手くなりたい、感心されたいとも、誰かと楽しい時間を過ごすための媒介にしたいとも思わない。昨日できなかったことが今日少しできるようになった、そういう嬉しい気持ちをもっと味わい続けていきたくて、しょっちゅう部室に足を運んでいる。ずっと続けていたバスケも、体育館で、1人でずっとシュートを打ち続けるのが1番好きだったなと思った。春休み、あまり勉強できなかったかもしれない。いやでも、思ったよりはちゃんとできていたかもしれない。

 あと1年、知らなかった何かを見つけながら、今ある何かに新しくときめきながら、変わってしまうさみしさを受け入れながら、今ではない未来のための努力を怠らないように背筋を伸ばしながら、淡々と過ごしていければいい。そのための工夫と努力を続けられたらいい。

【花田太郎】

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