連載コラム第2回 ICUのC―キリスト教への使命―Cコードは必要か
|ICUは名前に「キリスト教」と含まれている通り、キリスト教への信仰とともにある大学だ。大学のHP(http://www.icu.ac.jp/about/commitment.html)にも「ICUは、キリスト教精神によって立つ学園であり、その使命は、宗教も含めて、人間存在のあらゆる次元の問題を探求し、考究を深めることにあります」と示されている。実は、そんなICUにキリスト教に関連するある問題がある。それは「Cコード」と呼称される制約だ。
Cコードとは、ICUの常勤の講師はキリスト者ではなければならないという縛りのことである。確かにキリスト者でなくてもICUの教員になることはできるが、それは例外的であり、教員の公募の条件には「キリスト者であること(教派は問わない)」と明記されている。つまり、キリスト者以外には公募で常勤の教員になる道が閉ざされているのである。この縛りに対しては、当然疑問を持つ学生も存在する。そこで、今回はCコードについて考えてみることにしたい。来週からICUはC-Weekを迎えるので、ちょうどいい機会ではないだろうか。ちなみに、Cコードについての関連記事として、以下の記事(【特集:C-WEEK】Cコード擁護論――ICUの常勤教員は全員クリスチャン!?)も参考にしてもらいたい。
まず、単刀直入に言うと筆者はCコードに反対である。この決まりはあまりにも時代錯誤的なのではないか、というのが筆者の感想だ。「ICUとは“Isolated Crazy Utopia”の略だ」と揶揄されることがあるが、この冗談の中に垣間見えるようにややもするとICUは閉鎖的だと思われている。その文脈で考えたとき、Cコードはキリスト者以外がICUに教育面で関わることを拒否するような、そんな排他的な意味を持ってはいないだろうか。大学という高等教育の場がそのように門扉を閉ざしてしまってもいいのか、筆者ははなはだ疑問である。ICUにおける常勤の教員の道は、キリスト者であるかキリスト者でないかに関係なく万人に開かれるべきものではないだろうか。
さらに、日本国憲法第14条を参考にされたい。ここに「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」という文章がある。キリスト教を信じていないがためにICUの教員募集に応募できないということは一種の差別に当たっているように思われる。宗教とはすなわち信条であるので、Cコードはこの第14条に違反してしまっているのではないか。教員の個人的な信仰を採用の条件とすることは、やはり常識的に考えておかしいことのように感じられる。信仰に関係なく自分たちのアカデミックな場が開かれていて欲しいと願うことは学生の大半の思いではないだろうか。
一方で、Cコードを撤廃したらICUのC、「キリスト教徒への使命」をどう守ればいいのかという疑問を持つ方もいるかもしれない。しかし、キリスト者でないからといってキリスト教の理念を伝えられないということはないのではないかと考える。キリスト教の理念もICUの戸口と同じように万人に開かれているだろう。キリスト教が素晴らしい普遍の教えであるならば、キリスト者であろうがなかろうが、キリスト教の教えや倫理、正しい生き方は体現されていくようにも思われる。キリスト者でないものを排除する、そのような考えこそが異教徒をも自分の懐に抱こうとしたキリスト自身の教えに反してはいないだろうか。
ICUはキリスト教に拘泥するのではなく、より開かれた場になるべきだ。大学という教育の場を宗教のせいで狭めてしまうというのはなんとも情けない。ICUがより開かれて寛容な大学になることを一学生として願うばかりだ。